2003年(平成15年)11月10日号

No.233

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
静かなる日々
お耳を拝借
GINZA点描
銀座俳句道場
告知板
バックナンバー

静かなる日々
─ わが老々介護日誌─

(18)
星 瑠璃子

  8月21日
 加藤シヅエ・加藤タキ『加藤シヅエ104歳の人生―大きな愛と使命に生きて(2002・大和書房)を読む。
 2001年の暮に104歳で亡くなった加藤シヅエの病床記録のうち、死の2年前、103歳の誕生日直前までの第1部である。
 中心になっているのは、病床につきそった介護スタッフによって書き残された病床日誌だ。加藤シヅエさんのところに集まった、いずれも優秀かつ個性的な人材であったに違いない人たちの膨大な記録から、娘であるタキさんが選びつつ綴っている。そこには介護する側の想いばかりでなく、される側、シヅエさんの論理や情感、老いて生きることの哀しみが切々と吐露されていて、これまでにない貴重な資料となっていた。
 壮絶な晩年だった。95歳で転倒し右大腿骨を骨折。ここまではわが母と同じだが、99歳で白内障の手術、100歳で再び転倒して左大腿骨を骨折手術。101歳で舌癌の手術……と続いていく。 
 それでもなお、「学びたいことがまだまだいくつもある。あの本も読みたい、このことももっと知りたい。そして何よりも誰かのために何かをして差し上げたい」と願う加藤シヅエさんの、たとえば100歳の言葉はこうだ。
 「この歳になって初めて見えてきたことがたくさんある。健康な思考力をもって生きれば、いくつになろうと関係なく、日々何かを学んだり感じたりしながら、生き続けていくことができる。もし目をつぶってしまって、もう見まい、聞くまいという生活をすれば、その時から屍が呼吸しているようになってしまうであろう」
 「年をとることは、体の衰え、取り返しのつかない哀しみ、ごう慢な気持ち……情けないことがたくさん増える。その重みに耐えていくのは大変なこと。たとえば趣味ならば、我を忘れるほど夢中になれるものでなければ、老いの重荷にはとうてい、たえられるものではない。年をとってから、いきなり趣味を持ちなさいと言われて、その時だけ楽しめる何かをしたところで、どうなるものでもない。それよりも、何か使命感を持つこと。幸い私は、若いときから使命感を持つことができたために、いま、こうして老いの重みにどうにか耐えていくことができる」
 これは102歳の時の言葉であった。
 また、次のようなタキサンの心境は、私にはあまりに身近すぎて息苦しいほどだった。
 「高齢者の自立排泄を支えることはなんて大変なことだろう。しかも24時間、いつでも、本人がしたいと思ったときにすかさず介助できる体制を、私ははたしてつくることができるのだろうか。ことはトイレだけではないのだ。わけのわからないイラ立ちや、理不尽なもの言い、高齢者特有の言動に対して、否定したり訂正させたりすることなく介護することを、母の介護スタッフにお願いすることは、彼女たちの負担を増し、疲れやストレスをためることになってしまう。これに今後、私はどのように対処すればいいのか。これから先の母の介護のことを考えると、果てしのない不安が押し寄せて来て、目まいがしそうだった」
 タキさんは24時間ケアコーディネイターとでもいうべき役割を自らに課しつつ、最後まで在宅で介護する方法をとらなかった。次のように語っている。 
 「私自身にとって、在宅で母を支えるのは精神的に負担が重すぎます。わたしのことですから、きっとありとあらゆる対策を講じようと必死になったぶん、母と共倒れになってしまったでしょう」

 8月22日
 赤坂の S 病院へ Y 内科医長の診察を受けに行く。暑い日だったが、思い立った今日を外したらまたいつ行けるかわからない。朝食を終えるとすぐに家を出た。
 東京女子医大の前の道を突っ切り、国立第一病院の脇を抜け、慶応病院を過ぎて、11時少し前にやっと S 病院へ着く。なぜそんなにまでして渋滞の激しい道を遠くまで来るかといえば、病院らしからぬ静かで落ち着いた雰囲気が気に入っていたことがひとつ。それに、ホームドクターである近所のO 先生の「そのお年じゃあね」と全てを母の年齢のせいにしてしまう言い方に、常々納得のいかないものを感じていたのである。かてて加えて、この日の母は朝からイライラが激しく、居ても立ってもいられない病が再発していた。
 Y ドクターは東京大学、米国 N I H(国立衛生研究所)で学んだ人。「頭痛、めまい、しびれ、ぼけ等の神経内科領域を担当」と病院の 医師紹介にあるのを読み、ひとからも勧められていた。大正生まれのO先生よりはずっと若い方だが、こちらの言うことを、ひとことも口をはさまずにじっくり聞いて下さった。
 「お年を召した方にとって、眠れないというのはそんなに心配なことではないのですよ。トイレに夜8回も起きるのは確かに多いが、睡眠薬や精神安定剤で転倒してしまったりするようなら、それをやめたのは賢明でした」と、それに代わるものとして別の薬を昼用(メレリル)、夜用(セレネース)と二種類処方して下さった。
 「効果をよく観察し、どうかくれぐれも塩梅しながら服用して下さい。1週間ほど経過を見てみましょう」とのことである。
 母のことを「郁子さま」とやさしく呼んで下さり、私には「手を替え品を替えてやってみましょう」と励まして下さるのが何より嬉しい。待合室をかねた柔らかい間接照明のロビーにはグランドピアノが置かれ、若い美しい女性がショパンを弾いている。マイクが大声で呼び立てたりしないこんな雰囲気が、ムード派である私にはこたえられない。
 すっかりいい気持ちになって外へ出ると、病院前の道へとめておいた車がなくなっていた。駐車場へ入れる時間がなく、ちょっとならいいだろうと油断したのが失敗だった。受付をすませたら移動させようと思っていたのだが、その時間がなかった。
 タクシーを呼んでもらって車椅子と母を乗せて赤坂警察へ、車を待たせたまま書類を書き、レッカー車で運ばれてしまったマイカーを国会近くの駐車場まで取りに行って大汗をかく。レッカー代、駐車違反料金と、あまりに悔しい大損である。

このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。(そのさい発行日記述をお忘れなく)
www@hb-arts.co.jp