2003年(平成15年)11月1日号

No.232

銀座一丁目新聞

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静かなる日々
─ わが老々介護日誌─

(17)
星 瑠璃子

  8月14日
 安定剤だけで眠ることができ、転倒もなくなったと安心したのは束の間だった。その後二日続けて転んで、ついにクスリの服用をやめた。たとえ眠れなくても、転ぶよりはましだ。そう思って諦めると、そのうちにそこそこに眠れるようになった。入退院症候群、あるいはクスリの副作用によると思われる居間と寝室の激しい往復も、ここ数日はそれほどでもない。
 「ともかくひと月よ、ひと月たてば必ず元のようになられるわ」
 と毎晩のように励ましの電話をくれた友人 Kの言葉通り、退院1カ月が過ぎて、母はようやく入院前の状態にもどりつつあるような気がする。熱いトタン板の上のネコのように居ても立ってもいられず、動けない身体で動こうとしては転んでいた状態からは何とか脱しつつあるようだ。
 けれども今度は、睡眠と引きかえに食欲がなくなった。朝、昼はまだいいのだけれど、晩御飯がどうしても食べられない。そのうちに昼も、朝も、とエスカレートしてくる。暑さもこたえているのだろうか。一難去ってまた一難だが、食欲について一喜一憂することはやめよう。健康な人だって参ってしまうようなこの夏の暑さだったのだから。
 代わりに病院で手術後ずっと出してくれていたテルミール・ミニというジュース状の高エネルギーのバランス栄養食を思いだし、何かの時にととっておいた空き箱の電話番号に連絡すると、宅配をしてくれるという。とりあえず60食分を取り寄せる。

 8月18日
 テルミール・ミニが届くと、それがきっかけになったように、朝から美味しい美味しいと食事をするようになった。
 けれどもどうしたことか、そのあとすぐに気分が悪いと大騒ぎになる。いまニコニコしていたのが嘘のように「気分が悪いの、どうしてていいかわからないの」と、また寝室と食堂の間の激しい往復が再開した。これが昼夜を問わずにだから、母もかわいそうだが呼び立てられるほうも大変だ。こちらはまだ体力があるからいいようなものの、足立さんがヘトヘトになってしまった。
 共倒れにならぬよう早めに手を打たなければと、かねてより調べておいた「デイ・サービス」の施設、「キングス・ガーデン」というところへ母と見学かたがた行ってみる。 
 「キングス・ガーデン」は、その手の施設のなかでは異例といっていいほど雰囲気のある美しい建物で、北欧ふうの吹き抜けのリビングは広々とした庭に面し、庭にはベゴニアが咲き乱れている。こんなところなら母も気に入るかもしれない。週に一度でも気分転換となり、足立さんも束の間の息抜きができるだろう。
 「どう? こんなところでお友達ができるといいわねえ」と、母に聞くと、
 「そうねえ」
 と母もまんざらでもない様子。
 見回せば、リビングでは楽しそうに室内ゴルフのようなことをやっている。グループに入らずに、デッキチェアーで静かに新聞を読んでいる人もいる。
 モノは試しだ、合わなければやめればいいのだし、と、帰途0 先生に相談に伺った。通園するには主治医の同意書が必要なのである。
 ところがなんと、 0 先生は即座にこう答えてこちらを唖然とさせるのだった。
 「そーんなところはダーメです。お母様にはぜーんぜん合いません。そーんなところへ行ったら、よけい頭がグッチャグチャになっちゃうよ」
 「でも、絵を描いたりもできるようで」
 「そーんなところでお絵かきなんていって、あなた、お母様が喜ぶと思いますか」
 70歳をとうに越えた0 先生はいつもこういうもの言いをするのだが、この日は特にすごい剣幕で反対されてしまった。
 先日も「脳の写真を撮ってみる必要はないでしょうか」と訊ねると、「そんなもの撮るってあなた、一体なんのために? だれのために?」と一蹴されてしまった。まあ、先生の考え方にも一理はあろうが、そんなものだろうか。

 夜、幼友達のY君から久々に電話があった。
 とうとう母上を施設に預けたのだと言う。「とうとう」というのは、前にも書いたが、「このまま静かに逝ってくれたら」と思わずもらした、それを受けているのだ。
 3カ月前、犬の散歩の帰りに公園で介護にまつわる話を延々としてから、母は転倒して緊急入院、あちらのお母さまにもきっといろいろなことがあったのだろう。
 あちこち調べてまわったのだが、長野県佐久郡に見つけた有料ホームが気に入って、たまたま空き室があったので(こういうところはなかなか空きが出ないのだそうだ)お願いしてきた。でも本当にそれでよかったのか。ことここに及んでまだ思い悩み、夜も眠れない、と言う。
 「しかし、どう考えてもこれしか方法がなかった。このままでは共倒れになってしまっただろう。一時は家内と離婚して自分一人で面倒を見ようかとさえ思ったのだけれど」  と、ほとんど涙声である。戦後のあんな苦しい時代に、自分たち子どもを育ててくれた母親を捨ててしまったようで、と何度も言った。
 Y君の気持ちは痛いほど分かる。施設に親を預けて、思い悩まぬ子はいないだろう。みんな、いっとき落ち込んでしまう。前に書いた本多桂子もさんも、後藤治さんもそうだった。本多さんは思い悩んでアル中になり、父上より先に亡くなってしまった。何度も同じことばかり書くようだけれど、もしそんなときが来たら、私はどうするだろう。

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