2003年(平成15年)6月1日号

No.217

銀座一丁目新聞

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花ある風景(131)

政治学者、吉野作造の素顔

並木 徹

 政治学者、吉野作造(1878−1933)をこんなわかりやすくみせる芝居はなんとも素晴らしい。井上ひさしは演出・鵜山仁、こまつ座公演「兄おとうと」(5月22日・紀伊国屋ホール)の中で吉野作造の「民本主義」を「三度のご飯をきちんと食べて、火の用心をして、元気で生きられること」と説明した。
 舞台では吉野作造(辻満長)は演説の稽古をする。「りっぱなお屋敷を立てている大工さんが今にも倒れそうなあばら家に住み、豪華な着せ替え人形をこしらえる女工さんがあなだらけのショールで寒さを防いでいる。なぜ、なぜ、なぜ・・・」資本主義の矛盾をわかりやすくいう。庶民は何故、なぜを忘れてはいけないと教える。
 10歳年下の弟信次(大鷹明良)とはケンカばかりする。兄は理想を追い貧者の救済に力を尽くす。弟は役人で現実主義者で、ものごとをテキパキ処理する。兄は役人を批判し、不敬な言辞を弄する。弟は現実を見ろと諭す権力志向型である。後に商工大臣になった(昭和12年、近衛内閣)。
 妻同士が姉妹である吉野玉乃(剣幸)と吉野君代(神野三鈴)が計らって箱根の温泉宿に二人を招いて仲直りをさせようとする。この場面は面白い。当時商工省の次官であった信次は旅先でも書類にはんこを押す。はんここそ権力の象徴であるという。作造は東大教授を辞め(大正13年)「中央公論」で政治評論を発表する著名な言論人であった。簡単に仲直りするわけがない。夜おそくまで喧嘩口論する声に文句をつけにきた男と女がいた。男は東京の下町でブリキ工場を経営、社員旅行できている。女は大連連鎖街でキャバレーを経営、日本で探した若い娘をつれて中国へ帰ろうとしている。二人は9年前に別れて消息不明になっていた兄(小嶋尚樹)と妹(宮地雅子)であった。二人が歌う「会いたかったぜ」(作曲・宇野誠一郎)はその踊とともに芝居を一挙に盛り上げた。それは吉野兄弟の仲直りも暗示した。直接には妻たちが手帖につけていた夫達の寝言であった。兄は弟を、弟は兄を思う真情が語られていたからである。吉野作造が「民本主義」を唱えたのは東大教授時代の38歳のときであった(大正5年)。その二大綱領は「政治は一般民衆のために行われなければならぬ」。「政治は一般民衆の意向によって行われねばならぬ」である(吉野作造評論集・岡義武編・岩波書店)。それから87年。残念ながら日本の民主主義はいままだ地に付いていない。井上ひさしさんの意図はよくわかった。

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