2001年(平成13年)4月10日号

No.140

銀座一丁目新聞

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追悼録(55)

 ノートルダム清心学園理事長。渡辺 和子さんが毎日新聞(3月28日)で「わたしとおかあさん」を語っている。いろいろ母との間にあったが「世界一の母」と思っているというくだりに、深い感慨にとらわれた。
 和子さんは、2・26事件でなくなった教育総監、渡辺 錠太郎大将の次女である。昭和2年生まれで、当時渡辺大将は旭川の第7師団長(大正15年3月から昭和4年2月まで)であった。大将53歳、母すず子さん44歳の時である。
 孫のような子供を産むのにためらいのあった母親に「女が子供を産むのに恥ずかしがることはない。生んでおけ」と進めたのは父親であった。
 渡辺大将は愛知県の出身、陸士8期生、陸大はトップで卒業する。その経歴を見ると、外国生活が長い。軍事研究のためにドイツへ留学(明治40年2月)、ドイツ大使館付武官補佐官(同42年5月から一年間)、オランダ公使館武官(大正6年)その後参謀本部付として欧州に在住、大正9年8月に帰国する。
「海外の軍事情勢に精通し、平素給料の大半を洋書の購入に費やすほどの勉強家で学者軍人と呼ばれたほどの人であった」と52期の桑原 嶽さんはその著「市ヶ谷台に学んだ人々」のなかでいっている。
2・26事件で学者肌でしかも中立派の渡辺大将が襲撃の対象になったのは疑問をもたざるを得ないが、時代の渦の中に巻きこかれたというほかあるまい。
 事件参加の野砲兵第7連隊第一中隊、砲工学校学生、安田 優少尉(陸士46期・死刑)の証言によると、総監殺害が目的ではなく、渡辺大将を陸軍大臣官邸まで連行して擧軍一体昭和維新の断行を誓わせようとしたのだという。それが、杉並区上荻窪の渡辺邸の正門で面会をもとめたところ、護衛憲兵のピストルによる銃撃を受け、予期しない惨劇がおきた。
 屋内に侵入した安田少尉が「閣下に面会したい。案内してください」というと、すず子夫人は「どこの軍隊ですか。襟章からみると歩三ですね(一緒に参加した高橋 太郎少尉は歩兵三連隊第一中隊・46期、後に死刑)。帝国軍人が土足で家に上がるとは無礼でしょう。それが軍隊の命令ですか。主人は休んでおります。お帰りください」安田はこういい返した。「私どもは渡辺閣下の軍隊ではない。天皇陛下の軍隊である。どいてください」
 だが、夫人は立ちはだかったままそこから離れようとはしない・・・
 和子は当時9歳の小学生、両親と一緒にねていたのだが、襲撃に気づいた渡辺大将が咄嗟の間に部屋の一隅へ和子を足でけって銃弾をさけたのだと言う(石橋 恒喜著「昭和の反乱」下巻、高木書房刊より)。
 和子さんは母よりも父になつき、父もまた孫のような和子さんを死ぬまでの9年間いつくしんだ。
2・26事件を私は中国・ハルピンで聞いた。小学5年生であった。はっきり記憶している。10歳の少年には「何にも人を殺さなくても・・・」という思いはあっても事件の意味合いなどわかるはずもなかった。だが、現場に居合わせた母と娘に与えた心の傷は想像をこえる。その生き方に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。
 気丈な母親が和子さんをきびしく躾け、大学へ進学させ、英語の習得を説いたのは当然のように思える。しかし、洗礼を受け、修道女として信仰の道へ進むようになったのは意外であったろう。
 渡辺大将の教育総監の在任は僅か7ヶ月で終わってしまったが、その遺志をつぐかのように和子さんは37歳で大学の学長となり、27年間もを勤めた後も学園の理事長として教育畑で仕事を続けている。時には神様もいきなはからいをなされる。
 和子さんの好きな聖書の言葉は「彼は栄ゆべく、我は衰うべし」だという。

(柳 路夫)

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