1999年(平成11年)11月1日号

No.89

銀座一丁目新聞

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追悼録(4

“三原広東特電の秘密”

 

 すぐれた上司に恵まれるかどうかで、その人の一生が左右される。毎日新聞社会部長、三原信一さん(昭和6210月死去)は、私にとって、すばらしい人生の師であった。

 三原さんから新聞づくりのノウハウのすべてを教えていただいた。

 特ダネ記者だった三原社会部長の体験談はすべて貴重だった。広東支局長時代(昭和1311月から同187月まで)、所管の中国、日本軍が占領していた南方地域だけでなく、広く世界各地の戦況や欧米諸国の動きを打電、本社ばかりでなく他社をも圧倒、“三原の広東特電”として名をあげた。

 広東特電は連合軍の北アフリカ上陸第一報、ルーズベルト米大統領やチャーチル英首相の議会演説の内容を他社に先がけて報道、多彩な活動をした。

 広東特電の秘密は二つある。ひとつはラジオ、二つめは、資料の充実である。

 広東支局へ赴任前、無線技師に金にいとめをつけずに、秋葉原の電気街で部品を買い求め、13球ラジオ、当時最高級のラジオを組み立てて持っていった。これで毎夜、広東で米、英の放送を聞き、分析したのだった。着眼点がすばらしい。

 二つめの資料は、神田の古本屋をあさり、南支那、南方諸地域に関するものを集めた。また台北に滞在中にも,支局長に頼み,資料収集は心掛けた。ちなみに、司馬遼太郎さんは執筆の際、テーマに関する資料を神田の古本屋街で徹底的に探し、根こそぎ集めた。

 もちろん、広東市内の書店でも調査統計資料などを買い求めた。また、同地発行の英字新聞、漢字紙などの日刊紙、月刊雑誌を分類ごとに切り抜き、整理した。

 この資料のおかげで、大きなニュースがおきるたびに解説的な「広東特電」が新聞を飾り、読者にわかりやすい背景説明をした。

 三原さんが社会部長だったのは307月から335月までの3年間だが、次から次へと大型の長期連載をはじめられ、新聞協会賞、菊池寛賞などの賞をとられた。名社会部長であった。(柳 路夫)

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