2015年(平成27年)3月1日号

No.637

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

花ある風景(552)

 

湘南 次郎

 

陽谷山龍宝寺 

 神奈川県立大船フラワーセンターの前を西方に曲がり、短いトンネルを過ぎるとすぐ右手に堂々とした玉縄北条氏の菩提寺、名刹龍宝寺がある。過日、新聞折り込みに入ってきた「タウンニュース」に掲載された同寺の記事に改めて感慨を受けた。それは山門を入ってすぐ右手に等身大の石碑がある。何度かお参りに行ったが、説明も何もないので何気なく通り越してしまっていた。実はこの碑は特攻隊員の辞世を彫った碑であったのだ。見過ごして誠に申し訳ないことと反省している。

 この碑は「タウンニュース」や「インターネット」で小生、はじめて判った。碑には、「いざさらば わが身散るとも我が心 堅く護らん皇孫の国」と刻まれている。この辞世は先々代住職、團野宗勝氏の五男功雄さんが特攻の辞世として詠まれたもので、父上が、護国のため敵機動部隊に突入して逝った愛児の顕彰のため、建てられたと思うが、戦時下の切々たる親子の情を拝察し、涙を禁じ得ない。

 「インターネット」で調べてみると
 昭和19年(1944)10月29日神風特別攻撃隊 第二至誠隊
 第一ニコルス基地(注 フィリピンマニラ近郊の日本海軍基地)発
 マニラ沖機動部隊攻撃
 (九九式艦上爆撃機)
   偵察 中尉 團野功雄(神奈川・海兵71期)攻撃102飛行隊
とあった。

 この碑は供養塔であり、身内の事として、碑の説明がないのもかえってご住職のお人柄が奥ゆかしく、尊敬する。霊前には、お花が供えてあった。惜しむべし24歳で散華。英霊よ安かれ。ご冥福を祈る。            合掌

 横道にそれるが、時あたかも本誌2月10日号の「茶説」で特攻の意義を切々と説き、某新聞の無理解について憐憫の情を書かれていた。特攻は、敵軍事施設の攻撃に尽きるのだ。また、空襲下、滅私奉公、日の丸の鉢巻をして銃後の生産に身を挺して活躍した少年や婦女子たちの「挺身隊」という言葉を韓国人(当時日本人)慰安婦と混同(挺身隊を経験した方々がなぜ抗議しなかったのか?)する失礼きわまる記事を反省し謝罪したと思ったのに、どうもこの某新聞は時代錯誤、不勉強で、今度は特攻とテロを同一視したとは。「茶説」は我々戦前派には全く同感。

 ちなみに、寺の直前の閑静な住宅街は、大東亜戦争中に捕虜収容所のあったところで、正式名称は「横須賀海軍警備隊植木分遣隊」とし国際条約による捕虜収容所ではなく国際赤十字にも通告なく、秘密の海軍の捕虜を尋問する目的で小学校の旧校舎を利用し設けた。百名前後を収容し、尋問は2〜3週間、苛酷でアメリカ人、イギリス人、ノルウェー人6名の死者を出した。戦後は関係者が戦犯者として捕えられたが幸い死刑者は出なかったようだ。現在は跡形もなく、龍宝寺には特攻隊として散華された功雄さんの兄にあたる先代住職浩之さんの建てた捕虜犠牲者の供養塔が残されている

 また、近くの標高50mほどの丘陵は、難攻不落の玉縄城址(本丸は現在清泉女学院)であり、かつて、後北条氏の猛将北条綱成(永正12年(1515)〜天正15年(1587)氏康の義弟)が構えた城で、綱成は、川越夜戦で半年の籠城戦に耐え、国府台合戦で強豪里見氏を破り、相模三増峠、駿河深沢では武田信玄方を打ち破った赫赫とした戦歴を持ち、上杉謙信の鎌倉攻め、秀吉の小田原攻めにもこの玉縄城を頑強に守り抜いた古戦場である。その綱成の墓所はここ龍宝寺にある。


 

龍宝寺本堂 参道右、神風特攻隊員辞世の碑

(筆者撮影)