岡部伸著「消えたヤルタ密約緊急電」−情報士官・小野寺信の孤独な戦い―(新潮社・2012年8月25日刊)を読む。スエーデン大使館付武官であった小野寺信少将(陸士31期)がヤルタ会談(1945年2月11日)直後「ソ連はドイツ降伏後3ヶ月を準備期間として対日参戦する」とヤルタ会談の密約を大本営に暗号で打電したがなぜか無視されてしまう。本書は公開された資料からその謎を明らかにする。ドイツ降伏は1945年5月8日、ソ連の対日宣戦布告が8月8日。小野寺さんの密電通りであった。当時この情報を真摯に受け取り、それなりに対応しておればソ満国境での日本側の対応はまた違ったものになっていたであろう。我々に情報がいかに大切であるかを教えてくれる。時には国の命運が関わってくる。それを粗末にし、国家機密を透明にせよという愚者が多すぎる。
小野寺少将はドイツ語、ロシア語に堪能であった。このためポーランドやバルト三国(エストニア、ラトビア、リトニア)で情報網を築くのに大いに役立ち、連合国側から「欧州における日本情報収集の中心」と恐れられた伝説の「インテリジェンス・ジェネラル」となった。仙台幼年学校・陸士時代はドイツ語を学ぶ。少尉として任官した歩兵29連隊が大正10年シベリアに出兵する。この出兵1年間、暇あるごとにロシア女性タイピストからロシア語を勉強、新聞が読め、文章が書けるようになった。さらに昭和8年5月ハルピンで1年間語学研修をする。時に35歳。白系ロシア人の家に下宿し、ロシアの食事をしてロシア語だけの生活を送ったという。このころ私はハルピン小学校の2年生、ロシア語を専門に教えるハルピン学院の敷地にある職員住宅(父が学院の生徒監)に住んでいた。冬寒いので外にあまり出ない日本人に比べ白系ロシア人夫婦が良く手を組んで散歩しているのをよく見かけたのを鮮明に覚えている。小野寺少将が世紀の密電を送ってきた昭和20年2月中旬は神奈川県陸軍座間にある陸軍士官学校で59期生の歩兵科士官候補生として兵種別教育の最中であった。間もなく各地の歩兵連隊へ隊付きに出発するという時期であった。次第に敗色が濃くなってきた頃であった。小野寺少将の活躍は知る由もなかった。
情報を生かすのも殺すのも人である。価値ある情報も権力者の「不都合なる情報」として退けられる。冷静な判断は「表層の文字や現象を見ないでその奥にある深層の本質を見ることである」といったのは名情報参謀と言われた堀栄三少佐(陸士46期)の言葉である。今後中国はどうなるのか、どう出てくるのか。「中国はしばしば観察者を裏切る」と嘆いていては情報戦争に勝てない。小野寺信少将は昭和62年8月、89歳で死去した。今こそ小野寺信少将に学ぶべきである。
(柳 路夫)
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