2014年(平成26年)4月1日号

No.605

銀座一丁目新聞

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花ある風景(520)

 

湘南 次郎

 

人情愛情
 


 夕陽が西に傾き空が茜(あかね)色に染まって、家々ではそろそろ夕飯の支度だ。まだ路地には竹で編んだ縁台でお年寄りが将棋をやめる気配もなさそうだ。おばーさんが「おじーさん、いーかげんでやめな」と声をかけている。こどもたちがボツボツ原っぱから帰ってくる。おかみさんが前掛けで隠してお隣へ「家で作ったおかずだけど」と、カラコロげたを鳴らしてとどけている。かどの魚屋が「おまちどうさま」とおさしみを届ける威勢のいいのが聞こえる。かすかに横丁のうなぎ屋のかば焼きのにおいがして来る。省線電車の踏切を通る音が聞こえる。町のみながいい人、肩をよせあい助け合って暮らしていた。ま、こんなところが、戦前の庶民の住んでいた町の原風景だ。フーテンの寅さんは戦後だが、あの映画のとおり、まわりがみんな良い人、善人ばかり、お互い思いやり、助け合い暮らしていたころを思い出す。わたしはそんなところで生まれた。


 その後、隣組という制度(?)ができ、隣近所がますますおつきあいをするようになる。私の少年時代であった。中に支那そば屋の藍(らん)さんという中国人一家がいて、終戦後まで同じ隣組であった。私は軍隊へ行った留守も、みなは藍さんとすこしのへだてもなく助け合い、空襲になれば、一緒に防空壕に入り、食糧の配給も平等に、子供は学校教育を受けていた。つまり、わたしの両親などと苦楽をともにしていたのだ。わたしは戦後少し教員をやったが先生(シーサン)と言ってくれていた。少し変わった面白い今で言うラーメン屋のおじさんだった。ああそれに引き換え今の日中関係は。

 今のわたしの家は某分譲地にあり、前は通学路になっている。平日の朝など小学生の声がにぎやかに聞こえる。米寿にもなり、ひ孫ができる年になると、この声を聴けるだけでもうれしい。子供はかわいい。実に可愛い。前途洋々、お国の宝、未来を託す。しかし、家の前に出て、「おはようございます」「いってらっしゃい」と声をかけても、悲しいかな、かえって来るのは、半分だ。3月17日「よみうり寸描にも近頃の学校では、知らない大人と話しをしてはだめと教えているらしい」と。道徳の授業が始まるというのに人道、地に墜ちたか。もっとも、先生のお年ごろの人も満足にごあいさつできないのがいるんだからと、変ななぐさめ方をしてがまんする。

 わたし事になるが、先日、愛用の車が買い替えのころとなり、二人の娘がそれを聞き相談したらしい。娘たちも意を決して、言ってくれたのだと思う。車をもう年(小生88、妻85才)だからやめなさいと言われる。実は今いるところは、車がないとじつに不便なのだ。しかし、老いては子に従えだが、なかなか名案はなし。幸か不幸かセールスが来て、エアーバック三方向、前部と後部衝突防止装置の車を持って来た。早速娘たちを説得し購入し、現在注意しながら、快適に乗っている。ワカランチンの親を思う娘たちの思いやりは痛いほど判る。ゴメンネ。有難う。