2013年(平成25年)12月10日号

No.594

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追悼録(510)

母よ・・・

 母が私を生んだのは大阪市(東成区北清水長22番地)であった。大正14年8月31日の事であった。年配の助産婦さんは「この子は毛深いから情け深い子に育ちます。大事に育てなさい」といったという。歩兵8連隊に勤務する36歳の陸軍少尉の4男の誕生であった。この日は大正天皇の誕生日であったので父はその子を節男と名付けた。時に母は34歳。昭和7年までにさら2人の男の子生み兄弟は男ばかり7人となった。

 母の生れは愛知県岡崎市材木町。姉妹3人の3女。“木町の小町3人娘”と言われた美形であった。豊橋歩兵18連隊にいた父が岡崎地方への演習の際、見初め結ばれた。その後、父は陸軍士官学校で学び少尉候補生(4期)となった。大正13年12月卒業し、大阪の歩兵8連隊に赴任する。

 昭和8年4月、大尉であった父親のハルピン学院生徒監就任に伴い、ハルピンに赴く。母は映画好きで、長谷川一夫,高田浩吉のフアンであった。そのうち映画館「平安座」の支配人と顔見知りとなり3歳の末弟を連れて平安座の一室を借り一週間連続して映画を見たこともあった。当時封切り映画館の値段は大人50銭、男女別席であった。おそらく母が観た映画は長谷川一夫が林長二郎で主演した「雪丞変化」(松竹下加茂作品)であったろう。林長二郎が歌舞伎の女形・雪丞,俠盗・闇太郎、母親の3役を演じ、これに豪商、悪奉行などが絡む仇討物語である。見どころは何と言っても長谷川長二郎の水も滴る女形にあった。昭和10年6月に前編が10月に後編が封切られている。男ばかり7人を育て苦労した母にとってはそれが唯一の気晴らしであったのであろう。

 昭和18年4月、私が陸軍士官学校に入った時にはすでに故郷の岡崎に帰っていた。入校の保証人に都会では次第に手の入りにくくなった野菜などを送っていたという話を戦後聞いた。復員した20歳の私をしばらくは着物を食料に変えて食わしてくれた。女房と交際しているとき「女性にやさしくしなさい」といっただけであった。なぜか淋しそうな顔を見せたのがいまだに残っている。

 昭和23年初め、子宮がんを患い岡崎の病院に入院した。1週間ほど病院に泊まり込みで看護したことがある。下の世話までしたが日に日に痩せ衰えてゆく母の姿は耐えきれなかった。ラジウム治療を受けて一時小康状態となり父が百姓をしていた長野県下伊那郡喬木村で静養する。静養とは名ばかりで先立つものがなかったからである。6月に私は毎日新聞に入社、社会部記者として都内の警察を廻っていた。ガンには勝てず母はその年の11月23日、59歳でこの世を去った。質素な葬儀であった。私たちが見守る中ひと山越えた小高い山の上に土葬された(昭和53年1月に亡くなった父も土葬であった)。母の最後まで見守った末弟が歌を残している。

 「夕暮れや 墓標の前にたたずみて 悲しみ思う母の面影」

 母の名はむめといった。付近の人からは梅子さんといわれた。梅の花言葉は「澄んだ心」。母にふさわしいと私は今さらのように思う。

 

(柳 路夫)