片山恭子さん(横浜在住)からこのほど手紙を頂いた。心当たりがないので不審に思いながら開いてみると9月に贈った「人生の余白」―陸士59期本科14中隊1区隊史―のお礼であった。勘違いされて本のお礼が遅くなったと断りがあった。五九会本部から11月に送られた最後の「五九会名簿」を見て初めて気付かれたようである。文面には「主人弘夫がなくなって時、来ていただいてありがとうございました」とあった。片山君が亡くなったのは平成16年11月16日であった。9年も前である。片山君とは14中隊1区隊で一緒であった。確かお通夜に出席した。59期生は私一人で他の5,6名の参列者はいずれも片山君とは満州国軍官学校の同期生であった(4期)。津田幸治君(平成25年2月6日死去)の指揮で校歌を合唱し片山君の冥福を祈ったのを記憶している。
戦後、結成された「五九会」には陸士59期生、陸軍経理学校8期生、満州国陸軍軍官学校4期生が含まれている。4期生は4ヶ個区隊227名を数える。私が在学した大連2中からは渡辺武君(平成22年4月11日死去)が入校している。同君は戦後警察畑で活躍されたが同窓会には一度も出席しなかった。片山君とも座間で激しい訓練に励んだが戦後は会っていない。14中隊1区隊には軍官学校出身者は片山君のほか大方斐夫君(消息不明)、大沢義昌君がいた。当時、1区隊は46名が在籍したが誰が予科何中隊であったのか軍官学校出身者なのか気にしなかった。決戦下の訓練がそれだけ激しかったということであろう。私の寝台戦友は大橋信之君で予科31中隊3区隊、名古屋幼年学校出身であった。戦後日銀に入行。その後、名古屋の相互銀行の役員となった。その頃、再会しご馳走になった。大橋君も平成12年11月3日死去した。同期生会歌7番は歌う。「南溟、北海、雲おおい 鉄火のひびき、血しぶきの 決戦歳余、われもまた すめらアジアの礎に 散りて甲斐ある御垣守り 征け、五十九期、使命は重し」。
満州陸軍軍官学校は新京(長春)郊外二道河子より東方8キロ拉々屯台地にあった。同徳台と呼称した。時の校長は山田鉄二郎中将(陸士20期)。広島幼年学校長も務められたこともある。4期生は予科時代ここで過ごし59期生とまったく同じ教程を使用し、軍事訓練も同じであった。やや違ったのは中国語、東洋史の時間が多かったようである。航空兵科は昭和19年3月予科を卒業し所沢にあった航空士官学校へ、地上兵科は昭和19年10月予科を卒業、座間にあった陸軍士官学校へそれぞれ入校した。敗戦後、八野井宏生徒隊長(陸士35期)の『喜びて生き恥をさらすことに甘んじ』の別れの訓示を胸にそれぞれの道を生きてきた。残された「人生の余白」を美しく飾りたいものだ。
(柳 路夫)
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