2013年(平成25年)8月10日号

No.582

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安全地帯(402)

相模 太郎


名代官江川太郎左衛門


 36代江川太郎左衛門英龍(1801~1855)(太郎左衛門は代々世襲)は清和源氏の流れをくみ、平治の乱に敗れこの伊豆韮山の地に落ちのび、定住した子孫とのことである。彼は民政や教育に心を配り武蔵(東京近郊の幕末の郷土誌にも瞥見する)・相模・伊豆・駿河・甲斐を支配地に、名代官として活躍した。行政として種痘を初めて行い、また、反面、渡辺崋山、高野長英らと交わり外国の社会事情や国際情勢を知り、アジア周辺国が欧米諸国に侵略されつつあるのを深く憂慮した。伊豆西海岸戸田(へた)港に西洋式の造船所、韮山に反射炉(国史跡)(写真)を造り大砲を鋳造させ江戸湾(東京湾)の防備に当て、測量、砲術の研究、訓練を行った俊才である。

 先般訪ねた江川太郎左衛門英龍(坦庵)の現存する代官屋敷(写真)は、有名な源頼朝が34才まで20年間流されていた伊豆の国市韮山の蛭ガ小島より数百m東に残っている。偶然にも彼は、頼朝と先祖が同じになる。肥沃な広大な水田が山に近づくところにある。豪壮な屋敷(国重文)は、屋敷といっても役所跡であり、案内書によれば、建物は主屋552u、高さ12m余、付属の建物米蔵などを備え、主屋は戦国時代前後に建てられたものだが、堀が巡る中世の豪族屋敷をほうふつとさせ、修築を重ね今日に至っている。現在隣の資料館とともに江川家の史料が展示され、ボランティアが説明してくれる。また、この正面玄関はかつてNHK大河ドラマ「篤姫」で将軍家へ輿入れの舞台に使われた立派なものだ。また、土間だけでも162u、「生き柱」という自然大木をそのまま使った柱、見上げる大屋根を支える小屋組みの架構の素晴らしさ、美しさは見事と言うほかない。ほかに、庭に米蔵、武器庫などが建っている。裏門から見る富士の姿も松平定信が絵師に描かせたといわれ、見事だ。毘蘭樹(びらんじゅ)というバラ科の木があり、自然に皮がはがれ落ちるので身ぐるみはがれる「ばくちの木」と言われるとは面白い。

 そして変わったところでは、庭に「パン祖」の碑(写真)がある。碑文によれば天保13年(1842)4月12日部下に長崎でパン製造を学ばし、日本人としてここで初めて焼いた日で、国内では毎年4月12日をパンの日としているのだそうだ。太郎左衛門は軍事の携帯口糧としてパンに着目した。展示のものは、ボランティアの説明によれば、かつてのわが軍隊の乾パンさながらだが硬くて歯がこぼれてしまう。水に浸(ひた)して食べたそうだ。焼いた窯が展示してある(写真)。余談ながら星亮一氏著「敗者の維新史」中公新書によれば、「明日よりはいずこのだれか眺むらん、なれしお城に残す月影」と壁に大書して去ったと言われる男装の山本八重は有名だが、明治3年(1870)5月29日より戊辰戦争で薩摩軍(会津では官軍とは言わない)に敗れた会津藩は不毛な転封先の斗南藩(現在の青森県下北半島)へ武士の生存者、家族をアメリカ商船ヤンシー号で数回にわたり新潟港より分乗させて3日間かけて陸奥田名部まで移送した。その際の現地で使用する積み荷の中の食糧に、もち、米、酒などと一緒に「パン29かます、52個」(質量は不明)とか「船中の食事はもちとパンを支給する」と出て来る。その後の苦闘については省略するが、当時は、江川家パン製造28年後であり、戊辰戦争には携帯保存食糧として使われていたと思われる。
 先覚者江川英龍の活躍した時代に想いをいたしてご一見をお勧めする。

韮山 代官屋敷

邸内のパンの窯

韮山 反射炉

邸内のパン祖の碑

筆者撮影