2013年(平成25年)8月1日号

No.581

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追悼録(497)

写真家加藤豊さんを偲ぶ

 

 友人の霜田昭治君からメールが送られてきた(7月19日)。霜田君から紹介された写真家加藤豊さんの死を伝えるものであった。初めての出会いは7年前、加藤さんの写真展「閉じられたままの勝鬨橋」の会場であった。

 『今朝宅配の「勝鬨橋をあげる会」の情報誌「ponte」39号に、私たちが1昨年、昨年と2年連続で“橋巡り”のご案内をしていただいた加藤豊さんの訃報記事が載っていました。1月19日逝去、享年82歳。持病は肝臓癌で定期的に抗ガン治療をやっていると伺っていたが、死因は「自由が丘」改札口付近で倒れ救急車で搬送され、2日後急逝されたとのことでした。80を超えると想定外の死因で鬼籍に入られる方をよくお見受けしますね。加藤さんと私との出会いは私が所属していた写真倶楽部主催の東北ツアーの時でした。加藤さんが私のと同型の買ったばかりのキャノン一眼レフ(フイルム)の使い方を尋ねられたのがきっかけでした。 後の品評会で田沢湖の湖面の刻々と変わる色彩の変化を写した彼の作品をプロがべた褒めしていたのが印象的でいた。勝鬨橋もそうですが水に興味のある方は湖面だけの作品作りにも常人とは一味違う作品をつくられますね。加藤さんが東京トヨペット出身の方だったのは今日初めて知りました。[ponte]でもセールスのエキスパートらしい力を発揮されとのことで合点が参りました。牧内さんには2006年7月20日号(勝鬨橋個展)、橋めぐりでは牧内さんに2011年4月20日号、荒木さんには2012年4月20日号にご執筆頂きました。有難うございました。 合掌』

 本紙の「安全地帯」(平成18年7月20日号)で加藤さんの写真展を紹介した。その記事をここに捧げる。『加藤豊さんの勝鬨橋の写真展を見る。月島にある社会部の友人の家でよく麻雀で遊んだので晴海通りを通って勝鬨橋を渡った。市電が通っていたのを覚えているし、船が通るたびに橋の中央部が跳ね上がるのも知っている(昭和45年11月30日閉鎖)。加藤豊さんの写真展「閉じられたままの勝鬨橋 その造形と情景」(7月10日から15日・東京・有楽町交通会館)を見て勝鬨橋の表情が豊なのにびっくりした。点数は45点。様々な角度、撮影時間によって変化する写真が展示されていた。10年の間コツコツ撮ったものである。

 勝鬨橋は隅田川の玄関橋である。昭和15年6月14日開通した。全長246メートル、全幅2メートル、中央可動経間44メートル。もともとは昭和15年に開催予定の「万博」と「東京オリンッピク」会場(月島)への交通路として考えられた。戦争の激化で両方とも中止になってしまった。日本でも珍しい二葉跳開橋が誕生した。この橋には昭和15年の時代が色濃く残されている。当時鋼材が不足したので石材が多用されている。写真説明には「石は丁寧に研磨され微妙なR がつけられている」とある。資料によればこの年、高島屋の貴金属売り場から一切の金製品が撤収されている。また大阪市ではこれまで海に捨てていた火葬場の残灰から3.200円分の金歯や指輪を取り出したという。ちなみに給料の源泉徴収はこの年の4月23日から。戦費調達のためであった。時代と共に風景も変る。「夕映えの架線柱」の写真には東京タワーが見える。今では林立する高層ビルのため見ることは出来ないそうだ。「出来るだけ人物を入れるようにしました」と加藤さんが言うように写真には子供連れのお母さん、OLの姿、自転車で行き交う人々、遊覧船などが写っている。何時の時代でも庶民は懸命に生きている。それを忘れない加藤さんの心根が嬉しい。
  炎天の筏はかなし隅田川 波郷

 心からご冥福をお祈りする。


(柳 路夫)