2013年(平成25年)8月1日号

No.581

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安全地帯(401)

相模 太郎


「八」の字


 鎌倉幕府を開いた源 頼朝は「八」の字が好きだったようだ。今でも、すえひろがりでおめでたい字なのだが、鎌倉幕府の公的史書「吾妻鏡」に面白い記載があるのをご紹介する。

 治承4年(1180)7月5日、頼朝が日ごろ崇拝していた現在の熱海伊豆山神社、当時は神仏混淆(こんこう)であった伊豆山権現(熱海の伊豆山神社)の僧、文陽房覚淵(もんようぼうかくえん)を鎌倉へお呼びして、「かねてから気にしていたのですが、法華経を千回読もうと願(がん)をかけましたが、まだ忙しくて到底千回は無理なので800回に略してしてはいかがでしょうか。」お忙しいことで、つまりお経を値切ったのだ。

 そこは、頼朝がふだんからごひいきの三島権現、箱根権現、(神社)とともに崇拝あたわざる聖地のお坊さんだ。いわく、「君はかたじけなくも八幡大菩薩の氏びと、法華八幡のご加護をお持ちの方である。八幡太郎(義家)の子孫、源氏再興、坂東(ばんどう)八カ国の勇士を相従へ、八逆(八つの大罪)を持つ悪人の京都八条に住む入道相国(平清盛)の一族を退治なさることは、あなたの思うがままだ。しかし、これはあなたが、このお経八百部を読み唱えたおかげです。」(吾妻鏡の現代訳)と卒なくヨイショしたのだ。これでは、ふだんから大好きな「八」の字をこれほど使ってくれて頼朝は大感激の大喜び。導師にお布施を差し上げ、お帰りで門外に出られたのを、頼朝思い直して、また呼びとめ、「かつて、私が流人生活を送った伊豆の蛭ガ小島の土地がなにもしないでありますからご寄進しましょう」と大盤振る舞い。導師、「しきりに喜悦の気ありて退去す」。(当たり前)との結構なお話でした。

 ここで面白いオチがある。吾妻鏡脱漏(だつろう)(記載ぬけ)の一件。それは、まか不思議、3年ほど、頼朝の死の状況あたりの時期の記録が欠落していて判らない。かろうじて遠く京都のお公家さんたちの日記に簡単に残っているだけで、現在、歴史学者の中では見解がいろいろあるようだ。南北朝のころ書かれた「保暦間記」という書物よると、建久9年(1198)12月27日、頼朝の妻政子の妹が亡くなり、夫の稲毛 重成(現在の向ガ丘遊園あたりの豪族で頼朝のご家人)が妻の追善供養のため架け換えた相模川の橋(橋脚現存―写真参照)供養に出席した頼朝が騎馬での帰途、彼が討ち滅ぼした平家や同族の義経たちの亡霊があらわれ、乗っていた馬が驚いて暴れ、落馬した。その場所の名は、なんと皮肉にも「八的ヶ原」(やまとがはら)、現在の藤沢市八松(やまつ)である。その落馬がもとでやまいになり翌年正月に死んだという話。また、一天にわかにかき曇り雷雨となり亡霊が出た。驚き暴れた馬は、頼朝を振るい落とし相模川に飛び込んで死んだ。それから馬入川(ばにゅうがわ)ともいうようになったと。伝説が出来過ぎで、真偽のほどは知らない。とにかく、それが原因か、英雄惜しむべし。頼朝は、翌年、「正月13日頓病(急死)」(53才)と京都の公家藤原定家の日記「明月記」に書かれている。現在、死亡の日にちだけは定説となっている。(天台僧の慈円「愚管抄」にもある)

 現在の藤沢市立八松小学校の校歌の一節
 「八松が原の学校は 頼朝公の武士たちが 富士巻狩りの通りみち・・・・・・・」と子どもたちに親しまれ歌われている。

(註)
 八逆ー謀反(むへん)・謀大逆・謀叛(むほん)・悪虐・不道・大不敬・不孝・不義(日本古代の法律で国家社会の 秩序を乱すものとして特に重罪) (謀反は国家的犯罪)(広辞苑) 
 当時の馬−鎌倉由比ヶ浜海浜公園での発掘によれば、日本馬は低く小さい。頼朝ほどの男が落馬とは?
 公家の日記−当時のお公家さんたちは日記を書いたようだ。時代は少し遡るが藤原道長の国宝「御堂関白記」はユネスコ記憶遺産登録になる  

伊豆山神社(権現)(熱海市)

関東大震災で出現した
鎌倉時代の橋脚(茅ヶ崎市)
池を排水して調査橋脚発掘状況

(写真は筆者が実踏して撮影したもの)



古老いわく
          四(し)十、五十は はな垂れ小僧 八十八は 花盛り