オリンパスの社長、会長を務めた下山敏郎さんが亡くなった(6月30日)享年89歳だった。同台経済懇話会ではささやかな追悼式を行った。(7月9日)。同台経済懇話会では副代表幹事をつとめられた。代表幹事であった富士通社長・会長の山本卓眞さんとは陸士58期の同期生で敗戦時、満州で同じ飛行場で特攻の訓練を受けていた。追悼式では「航空士官学校校歌」と「遠別離」を歌い、故人を偲んだ。
昭和20年8月16日、下山さんは満州・奉天の飛行場で聞いた島田安也部隊長(陸士38期)の終戦訓話が忘れられない。「諸君らにはこれまで、国のために死ね、と教えてきた。しかし、今をもって命令を変える。死んではいかん。なにがなんでも生きて帰り、祖国の再建に力を尽くせ。今までは、食う物、着る物、すべて国が支給した。これからは自分の力で食っていかなければならない。それを思うと哀れで、涙が出る」
戦後、下山さんは東大を出た後、オリンパスに入社する。とりわけ営業力抜群でヨーロッパの販路づくりに功績をあげた。ヨーロッパの前にはニューヨークにいた。その頃のエピソードがある。「ジャパン・カメラ・センター」で展示品のカメラの盗難事故が頻発した。ある日ひそかに下山さん見張っていると、若い米国の青年がカメラを奪って逃げだした。その青年を追いかけ掴まえ組み敷き、カメラを取り返そうとした。ところが昭和20年代の事、日本人が馬乗りになって米国の若者をいじめているとしか、野次馬には見えなかった。やじ馬が泥棒とは知らずに米国の若者に加勢、このためみすみすカメラ泥棒を逃がしてしまった。失敗談だが下山さんの仕事熱心を示すものであろうと、同じころ三井物産のニューヨーク駐在員であった霜田昭治君(陸士59期・東大)が在りし日の下山さんを語る。下山さんは平成17年1月、国際写真協会(本部ニューヨーク)から米国で50年にわたり日本カメラの浸透に貢献したとして『栄誉の殿堂賞』をいただいている。
(柳 路夫)
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