2013年(平成25年)7月20日号

No.580

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

安全地帯(400)

湘南 次郎


湘南某分譲地のこのごろ


 気候温和、空気も良く、風光明媚のところに当分譲地はある。しかし、富士山の頂上と同じで景色の好い所は不便である。孫の中学は徒歩40分、大きな病院には山越えでタクシー片道2,000円以上はする。そこで車が一家に一台だ。勿論、ここは鎌倉時代の「鎌倉中」といった旧市街を取り巻く山の外に点在する分譲地のひとつである。昭和40年(1965)代の造成工事、自然破壊され、大手不動産会社によって開発された。当時はたいした人気で、売り出しには週刊誌にも喧伝され、バイトを頼んで一週間も並ぶという異常さであったが、昭和45年の売り出しに、未明に幸い家内が父を伴って東京から出かけ、場所を決めて購入することができた。北は山、南は海、陽光燦々、夏は涼しく、冬は暖かく住むには快適である。しかしまだ、不動産会社はうしろの山を削ってまだ家を建てていて、住民は自分の自然破壊を棚にあげ、反対運動がさかんである

 昭和50年前後に多くの購入が行われ、約、1300戸が一斉に入居して新しい街が出来た。当時は住民の多くは平均年齢も働き盛り、活気みなぎる新興住宅街であった。もっとも名士を含め、旧鎌倉族の方々には移住者としてひんしゅくを買っていたと思うが。しかし、江ノ電、モノレール、スーパー、多少の商店や郵便局、小学校もあり、とりあえず不自由はなかった。大きい分譲地だけに今でこそバスがあるが、駅まで遠い家は通勤が、雨、風、雪もあり大変。そのうえ山を削ったところだから、先住のシロアリが多く、とにかく起伏で坂ばかり。小生も東京では20分の通勤だったが、引越してからは、家内にJR駅まで車で送ってもらったが勤め先まで2時間あまりは優にかかった。休日と、変な話だが、定年になるのがほんとうに待ち遠しかった。分譲地の夏は湘南らしいお祭りがあり、縁日や幼児からおばさんまでのフラダンス、高校生のブラスバンドの演奏や和太鼓、祭囃子、踊りなど賑わいをみせるが、ふだんは、むしろ、観光地の雑踏もなく、静かな落ち着いた街である。

 しかし近年、大問題が起こる。一斉購入したので、一斉高齢になってしまった。おさだまり、高齢者は天寿?を全うしバタバタ逝くことになる。したがって、強いほうの女性軍は残る。各地に言葉は甚だ悪いが「後家横町」の通りができる。その女性たちでも、買い物に杖や手押し車でやっと坂道を歩くのが普通になる。必需品の自家用車がタクシーに代わる。遊歩道を散歩すると、ときどき、立派なご老体からおかしなことを言って声をかけられ困ることがある。小生も加齢とともにヒザ、腰、神経痛に悩まされ、引っ越してきたときの元気はどこえやら、杖のお世話になっている。また、日中は人通りもめっきり減った。見限ったのか東京や横浜へ引き払って帰って行く人も多くなる。したがって空き地、空き家も出て来ることになる。車の免許更新は痴ほう症の検査もある明日は我が身、ことは深刻だ。当新聞の主幹牧念人氏は120才まで生きると宣言されたが、あと32年、お約束の小生119才は無理かな?まわりにご迷惑かけねばいいが。

 捨てる神あれば、拾う神あり。ごく最近、自然破壊の造成の後輩たちが増えてきてあっち、こっちの山の斜面に多少狭い敷地の家が建ち、若い人たちが移住してきた。街はだんだん活気が出てきたようだ。日中は淋しいが、拙宅前は通学路になっているので、このごろ子どもも増え通学、帰校時は賑やかな声が聞こえるようになった。顔をあわせると「おはようございます」「いってらしゃい」「行って来ます」とごあいさつをするようになった。以前より、学校も落ちついてきたのだろう。遊歩道もベンチに座るご老体をしり目に、ちいさな子どもたちが駆けずりまわってさわいでいるようになった。
要するに代は変わったのだ。変わらないのはあの当時の残党だ。老兵は去るのみ。あとは分譲地の発展を祈って、○○霊園への路を杖ついてトボトボか、悠々か、歩いてゆくより仕方あるまい。