2013年(平成25年)5月20日号

No.574

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

安全地帯(394)

湘南 次郎


大阪大空襲の思い出

 3月はいろいろ事件のあった月だ。3月10日といえば、われわれ戦前派は日露戦争(1904〜05)の奉天会戦に勝利した日で「陸軍記念日」とし、代々木練兵場で天皇陛下の観兵式を思い出す。奇しくも3月10日は、昭和20(1945)年の東京大空襲で10万人以上の犠牲者、平成23(2011)年3月11日は東日本大震災、死者、行方不明者2万人近くの犠牲者が出た。そして昭和20年3月13日夜から14日未明にかけて、1回目の大阪が大空襲を受け、「みなみ」の中心街、道頓堀あたりが焼夷弾で焼失し壊滅した。

 昭和20年当時、小生は19才、陸軍の某学校の士官候補生として、京都中部37部隊(歩兵第九連隊)に隊付勤務に派遣されていた。隊付とは、教員になるための教育実習のようなもので2月19日より3月23日まで学校では知ることの出来ない実際に兵隊さんと起居、訓練を共にし、将来幹部となり、指揮統率するための実習であった。この貴重な体験談は後日とするが、一緒の内務班(約20名)に有吉健次郎という兵長(兵隊さんの位)がいた。彼は飄々とした背の高い細くて見るからに兵隊さんらしくないインテリで無理に召集で来たような、正規の徴兵検査で不合格であった補充兵であった。年も10才位上か?ある日、有名なカメラ雑誌「アサヒカメラ」を持て来て見せてくれた。かれの作品が数点出ているので驚いた。相当のカメラマンだったようだ。

 昭和20年3月11日は日曜日(調査して確認)で京都の連隊では兵隊さんが外出が出来なかったが、われわれ候補生は外出が出来た。少し遠いが神戸の東、御影(みかげ)に叔父がいるので訪ねることとし、乗り継ぎの方法を有吉兵長に聞いた。かれは、勿論関西弁で丁寧に教えてくれたが、わたくしに数本のフィルムを託し現像、焼き付けのため、道頓堀付近の地図を書いたメモにあるカメラ店に届けてもらいたいとのことであった。そして、叔父さんの所へ行くなら、喜ぶからといって、一足の靴下(軍隊では携帯によく使用する)に入った当時としては甚だ貴重な白米を渡された。彼がどうして手に入れたのか、おそらく炊事に顔が利くのだろう。くだらぬ詮索は抜き。素直に重いおみやげを持って、カメラ店へ立ち寄り、フィルムを渡してから叔父の家を訪問したが、とても喜ばれた。暗くなって市電の停留所まで送ってもらったのを覚えている。

 運命は、一日おいた3月13日夜、大阪は米軍B29爆撃機274機の第1次大空襲を受け、死者3,987名行方不明687名の犠牲者を出し、道頓堀付近の繁華街は壊滅的打撃を受けたのだ。僅か2日早くて助かった。勿論、有吉兵長のフィルムは駄目だったろうが、遭遇していたら連隊へ帰ることができず、命も危なかったろう。冷汗三斗。そして、大阪はその後、8月14日終戦前日の大阪城被災まで計7回の空襲により1万5千名の犠牲者を出し、焼土と化した。しかし、古都京都は、他の大都市空襲の帰りにB29 が東山に余った爆弾を落としていって被害が出たことがあったが、ほか数回の小区域の爆撃にとどまり、大都市としては、損害は軽微で、空襲警報も少なく、比較的平穏で終戦を迎えた。米国のウオーナー博士の進言で奈良とともに、京都は文化財保護のため爆撃を中止したのを知ったのは戦後のことである。