2013年(平成25年)5月10日号

No.573

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安全地帯(393)

湘南 次郎


お友だち

 私は持病に坐骨神経痛がある。東京在住、昭和28年(1953)、28才のころ、過労働で椎間板ヘルニアをやったことがあり、当時は医学も進んでいなかったのか、ギックリ腰で済んでしまったが、ひと月は動くことも出来ず、和紙に黒い軟膏を塗りつけたやつを貼られ、その副作用で大事な下半身がカブレ苦労した。近所の懇意な銭湯のオヤジにすすめられ、女風呂こそ覗かなかったが覗き窓のある楽屋の熱水槽のふたの上で、寝転がって温めたこともあった。だが、このヘルニアが、60年間もわざわいするとは、夢にも思わなかった。 

 腰の痛いことは時々あったが、20年ほど経って聖路加病院に勤務していた親友の医師にレントゲンで診てもらう機会があり、フィリムを見て吹き出して笑う。おまえのは、ちょうど背骨が自動車のクランク軸のようだ。真っすぐになっていない。それが神経に触れて痛くなるそうだ。ところが、道楽にゴルフを始めた時期があり、夢中で練習をし、腹筋、背筋、脚のトレーニングもやった。これが効を奏したのか背骨を取り巻く筋肉がついてサポーターとなり、痛さが強く出ることはなかった。

 ところが、定年65才の数年前から右の腰から足へ氷の棒が通っているような痛みを感じるようになり、親友の勧めで電気座布団のお世話になる。完全な坐骨神経痛である、若いころからのたたりがまた、頭を持ちあげたのだ。間もなく、「毎日が日曜日」になったので、適宜の運動も出来、寒くなると時々は出ても注射でたいしたことはなかった。しかし、わが友、格好の悪い脊椎くんは、年と共に順調に(?)狭窄症(きょうさくしょう)になって行ったのだ。

 以上、前置きだが、最近強烈なのが発症した。久しぶりに新宿へ出て、恥ずかしながら急に脚が動かなくなり、しばし、駅の雑踏のなかで腰を曲げて立ち往生。「わが友よ、いい加減にせんかい!」。動くと例のところに電撃がはしる。あきらかに、脊椎間(せきついかん)狭窄が神経を圧迫しているのだ。運悪くこのゴールデンウィーク直前だった。病院は休みが多くなる。あたかも、翌日、友の本誌主幹「牧 念人」君より、私が在住している鎌倉のギャラリーでの能面展にお誘いを受けていた。彼の多趣味に感心しながら逢えるのを楽しみにしていたが、これでは無理とおことわり、生まれて初めての能面展示、拝見出来ず残念。わざわざお出かけ申し訳なし。

 家の中でも、散歩中採取した珍しい四角の竹を背丈ほどに切り、杖にしたのを使用する。まるで水戸黄門だ。また、キャスター付きの椅子を妻に押されて車いすにする。病院に行って、尻のしっぽの場所にブロック注射をされる。このザマは思い出すのも情けない格好だ。休みが多いので痛みどめの薬をタップリくれるが、胃をやられ、おまけにピッピッと痛みが走るので力が入らず、薬の副作用か尾籠(びろうg)だが便秘で出血、泣き面に蜂だがウオッシュレットよ有り難う。幸い好天が続きで多少は助かるが、入梅どきともなれば、雨の前は天気予報になって、陰にこもった痛さが常時走るのは判っている。逃避行には、小原庄助さんならぬ朝、昼、晩のお風呂が良く、束の間、痛さを忘れる。あとは湿布し、サポータ(昔は6尺の腹まき)だ。ただし、あまりベタベタ貼るとカブレ、皮膚が興奮して眠れなくなる。医者は季節外れだがホカロンで温め、冷やすなというので、薬局の売れ残りをさがす。悲しいかな、齢はとりたくないもの、命の賞味期限はとっくに切れ、あちらの国へ行くのに、ヒザ痛とともに、くっ着いてくる友がまた出来た。ダマシダマシ痛みどめの注射をして、連れて行くより仕方があるまい。
  
 イテーッ!  「連休に 連痛となり 車いす」  次郎