2013年(平成25年)4月1日号

No.569

銀座一丁目新聞

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追悼録(485)

二川幸夫の写真展「日本の民家1955年」を見る

 

 二川幸夫・建築写真の原点「日本の民家1955年」を見る(3月21日。パナソニック汐留ミュージアム)。展示された作品は72点、いずれも1950年代に撮影された。「空から見た京都中京区辺りの町屋」から「岐阜県白川村芦倉、合掌造りの民家と墓」までそれぞれの作品に圧倒されながら満ち足りた気持ちになった。日本民家そのものが一つの美であると今更のように感心する。

 「京都の藤井源四郎家の正面」。ご主人が家の奥でどんな顔をされているのであろうか、きれいな御嬢さんはいらっしゃるのだろうかと想像する。1864年以後の建築とある。明治維新は4年後である。この家は両替店「松前屋」といった。幕末の京都は何事と騒がしいかったはずである。「愛媛県宇和郡西海町外泊集落」急な坂の両側に石垣が並ぶ。屋根が9つ見える。石垣は台風と季節風を防ぐ。この辺りは風の通り道。生活の知恵が石垣を生む。なるほどと思う。

 なぜ「1955年」なのか。二川の年齢は23歳である。作品は20代のものである。無我夢中で働く年である。彼自身「古いものが全部拒否され、文化や美しさのよりどころが分からない自信喪失の時代」と言い残している(朝日新聞)。時代を流行歌と文学作品で見ると、ヒット曲は菅原都々子の「月はとっても青いから」(作詞・清水稔・作曲・陸奥明)、エト邦枝の「カスパの女」(作詞・大高ひさを・作曲久我山明)。芥川賞33回遠藤周作「白い人」、34回石原慎太郎「太陽の季節」。直木賞33回該当作品なし。34回新田次郎「強力伝」邱永漢「香港」である。「住まい」で見ると、日本住宅公団が発足する(7月)。はじめて2DK,3DKの表示が使われる。住宅不足は270万戸と発表される。時代は古きをすてて新しきを追い求める。そんな時代でも二川は古き「日本の民家」に美を見つけ追う。撮影を拒否する家には朝4時に訪ね、主人が起きるまで待ち続け、お願いする。断われるとまた同じことをする。4回も繰り返すと相手が根負けして撮影が許可されるという。これは事件記者の夜討ち朝駆けとまったく同じ手法である。このころ私は社会部記者として事件に明け暮れした。

 なぜか「山形県蔵王村、民家の妻破風」が心に引っ掛かる。屋根に奇妙な形の窓がある。「はっぽう」と呼ぶ。その窓下にまだ雪が残る。通風採光の用をなす。これは養蚕はなやかなりしころからはやったものだという。毎日新聞社会部時代のデスク戸川幸夫さん(昭和29年・32回直木賞「高安犬物語」の著者)は旧制山形高校出身であった。山形名物の芋煮会の話を友人の一緒に聞いたことがある。馬見ヶ崎川の河原で女子師範の生徒たちのそばで芋煮会をやり、彼女らに味付けをしてもらい大いに楽しんだ。このころは男女七歳にして席を同じくせずが厳格に守られて日頃は口もきけなかった。芋煮会のコツは安い馬肉をたくさん買い込み、初めにたらふく食べさせ、おいしい牛肉を後で少し食べさせるのだそうだ。せっかく知り合った女子師範の生徒たちと町であっても知らん顔を決めるのが常であったという。このころ若い男女の間には「はっぽう」なかった。考えによっては河原での芋煮会がその役割を果たしていたのかもしれない。

 二川幸夫は会期中(1月12日から3月24日)の3月5日、80歳で死去された。仕事をしながらの死であった。心からご冥福を祈りする。


(柳 路夫)