2013年(平成25年)4月1日号

No.569

銀座一丁目新聞

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安全地帯(389)

相模 太郎


信州霧ヶ峰ビーナスライン

 ビーナスラインは、北佐久と諏訪地方を分ける分水嶺、白樺湖より美ヶ原まで標高1400mを蓼科、八ヶ岳は指呼に、南北アルプスを遥かに望みながら走る全長76qの本格的山岳観光道路だ。沿道は森林が少なく、ほとんど茅戸(かやと)の草原で眺望はすばらしい。リフトやレストランも整備され、冬は、スキーで、春から秋にかけてはハイキングで多くの観光客が訪れ賑わう。雪溶けともなれば、いっせいに草が萌え、貴重な高山植物も見ることができる。今回は意外に知られていない歴史的に見たスポットを紹介しよう。

(大門峠)茅野より国道142号線を北上、上田方面へ向かう標高1441mの峠。武田信玄の作った棒道(ぼうみち)と並ぶ甲州より信州北佐久方面侵攻の軍用道路の要衝であり、現在、甲府市の武田神社のある躑躅ヶ崎(つつじがさき)と呼ばれる武田氏館より、軍勢がたびたびここを往復した。近くには信玄の座ったと伝えられる「御座岩」もある。蓼科山のドームを指呼の間に、すぐ横に明媚な白樺湖があり、北はなだらかで、古来より「望月の駒」と称する名馬を産出した牧場が点在する。見晴らしのいい草原に寝転んで、浩然の気を養うのも悪くない。

長門牧場より大門峠・蓼科山を望む

(御射山遺跡)大門峠よりラインを5kmほど西に向かうと右手に尾瀬ヶ原と同じような高所にある八嶋湿原の手前に隣接し、盆地状で底が縦370m、横260mほどのすり鉢状の平原になっているところが御射山(みさやま)遺跡である。平安から鎌倉時代、盛んに諏訪大社下社の御狩神事が行われた場所で、諏訪神社の祭祀を司った諏訪氏一族郎党の武士、すなはち、諏訪神党の練兵場だ。鎌倉時代の正史といわれる、「吾妻鏡」にもたびたび出て来る諏訪氏は、特に弓馬に秀で抜群であった。日本版コロセウム(円形競技場)状の遺跡で階段の観覧席の痕跡も一部見え発掘も行われている。あのすすきのなびく壮大な平原の中に立って周囲を見回し、疾駆した鎌倉武士の雄姿を偲ぶのは爽快である。源頼朝も観閲したとの説もある。

階段状 御射山遺跡

(和田峠)ラインをさらに美ヶ原方向に4qほど行くと中山道随一の難所和田峠に着く。国道142号線(旧中山道)は現在トンネルで下を抜ける。余談だが、日本全土に分布、出土する古代使用した黒曜石の鏃(やじり)の多くはこのあたりで採掘されたものが多いとのことだ。
 峠を下諏訪方面へ500mほど下った所の右側に水戸浪士の墓が残っている。幕末、水戸藩が改革派(尊王攘夷派)・保守派などの派閥抗争の結果、元治元年(1864)3月筑波山で決起した尊攘派天狗党は武田耕雲斎を首領とし、約千人が各地を転戦しながら水戸藩出身の京都にいた徳川慶喜を頼って決起の趣旨を言上するため、この中山道を西上し、諏訪方面を抜ける途中、ここで、高島・松本藩に迎撃され、大砲まで使った激戦があった。ちなみに水戸天狗党にはわれわれ陸軍士官学校同期の茨城県出身、故梶山静六代議士の先祖、梶山敬介も加わっていた。梶山代議士の血の気が多かったのもむべなるかなだ。結果、両軍で10人前後の戦死者を出し、天狗党が勝利した。以後中山道より馬篭から木曽へ出、(ここで、映画では菊は栄える葵(あおい)は枯れる「伊那の勘太郎」が案内役の出番になる)京へ向かうが、幕軍の抵抗激しく,上京出来ず、加えて反対に慶喜が追討軍司令となるにおよび反乱軍の汚名を受け、北陸敦賀で降伏、にしん小屋に押し込められ、獄死、処刑約370名、遠島137名その他多数の処罰者を出した。敦賀には、首領以下の供養碑、にしん小屋が現存している。

和田峠 水戸浪士の墓

(万治の石仏)和田峠を下った諏訪大社下社の西裏に大変ユニークな万治年間(1660年ごろ)の素朴な石仏がある。一見の価値あり。冬、お首が伸びるミステリーがあるそうな。原因は、お首がはまっている穴に、水がたまり凍って押し上げるらしい。
(写真は筆者撮影)

下諏訪 万治の石仏