花ある風景(487)
並木 徹
「いい加減に生きる」という意味
つい最近、ある会合で、作家の渡辺淳一さんが挨拶の中で言った「いい加減の生きることです」という言葉が妙に気にかかって仕方ない。教育勅語、軍人勅語の世代である。誇り,矜持,真面目、けじめ、規則正しさは持っているつもりである。万事に「何事もこうしなければならない」と思い込んでいる。昨今、どうも体の調子が悪い。心が何となく不安定である。渡辺さんの言葉を聞いて何かすっきりした。心のおもりが落ちたような気がした。「肩の力」が抜けた。「いい加減に生きる」ということが新鮮であった。
ところがである。世の中は「いい加減」を許さない。柔道連盟の理事が指導もしていないのに3年間も「強化助成金」をいただいていたという。まだある。国から私学の助成金を受けるため大阪産業大学では入学の意思のない生徒に受験させるよう付属高校に依頼した「やらせ受験」があった。よくもこのような裏で行われていることが分かるものだと思う。いずれも国の税金である。けしからんといえばけしからん話である。
「いい加減に生きる」ことにもけじめがあるということであろう。国の税金でなく自分のお金を使えばよいことだ。ところがお金がままならない。夫が定年後。主婦の言葉。「本当に男の人って、定年になったら、いらないのよね」つまり、定年になって給料を持ってこなくなったらもはやいらない不用品と同じというわけである(渡辺淳一著「老いかたレッスン」新潮社)。とりわけ夫のために食事を作るのが面倒になるらしい。というより嫌になるらしい、このために老人ホームに入居した友人夫婦を知っている。とかく人間というのは薄情なものである。この本には定年後5人ぐらいのガールフレンドを持ってと教えている。どうであろう。一人の女性にも手を焼いているのに5人の女性と付き合えというのは無理な話のように思えるし渡辺淳一さんのように特殊才能がいるのではないかと思う。
生涯ジャーナリスを目指す私には毎日ものを書く仕事があり取材するため外にも出なければならない。88歳になる今年から「いい加減に生きる」ことを心がけたい。
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