菅義偉官房長官が「政治の師」と仰ぐ梶山静六元官房長官の墓がある茨城県常陸太田市を訪れ墓参をしたと新聞が伝えた(1月15日・毎日新聞)。菅官房長官は集団就職で上京、政治家になった苦労人で、初当選した1996年当時梶山さんは官房長官。1998年梶山さんが総裁選挙に出馬した際、支持するなど常の行動を共にしてきた。墓参後「当時の日本は今と同じ危機的状況であった。政治の力で物事を変えられることを実行できる政治家であった私の政治の原点だ」と偲んだという。
梶山さんは陸士の59期生。航空士官学校に進み満州で操縦の訓練中に敗戦を迎えた。私たち59期生が集まると「梶山が生きておれば今頃総理大臣だが・・・」という話になる。彼と最も親しかった同期生後藤久記君から聞いた話を中心に彼をしのびたい。彼が好んで口にした『采根譚』の一節がある「風、疎林に来る。風過ぎて竹に声を留めず。雁.寒潭を渡る。雁去って潭は影を留めず、故に君子は事来りて心初めて現れず。事去って心、随ってむなし」。達成感に浸ることができた時に口から出る一節だという。
揮毫を求められて書いた文字は「愛郷無限」であった。「私の政治理念はこの4文字に込められている。故郷を想う心無くして国を愛することはできない。国の発展なくしてく故郷が豊かになるはずがない」とよく口にした。梶山さんは愛国心を説いた。元軍人であったが平和主義者であった。彼の兄の一人が昭和20年8月17日満州で戦死している。その際、母親のさきさんは三日三晩泣き通してであった。父親を10歳の時に亡くし母親に育てられ梶山さんはその姿を見て「戦争だけは絶対に避けねばならない」と決意を新たにしたという。昭和36年2月17日、母親さきさんの病が重くなった際、彼はさきさんと添い寝して冷たくなってゆく母親の体を温めた。誰もができることではない。近所で評判の親孝行息子であった。歌がうまく、森進一の「おふくろさん」(川内康範作詞作曲)は絶品であった。
好漢梶山静六さんは平成12年6月6日死去(享年74歳)した。すでに12年たつ。まさに日本は危機的状にある。一刻の猶予も許されない。政治の力を最大限に発揮しなければならない時だ。采根譚の一節で結びたい。「世を済い邦を経むるには、段の雲水の趣味(無欲恬淡で停滞することのない、無心の心の味わい)を要する。若し一たび貪着することあらば、危機に堕ちん」。安倍晋三政権を支える菅義偉官房長官よ、心せよ
(柳 路夫)
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