2012年(平成24年)12月20日号

No.559

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(475)

温厚にして和の人・白木東洋さんを偲ぶ

 

 毎日新聞社会部で一緒に仕事をした後輩が次々に死んでゆく。取り残された気持ちになる。大阪社会部まで一緒であった白木東洋さんが亡くなった。各社にその死亡記事が掲載された。「白木東洋さん(元日本記者クラブ専務理事兼事務局長)が4日、肝不全で死去、80歳。故人の遺志で、通夜と葬儀は親族のみで行う。喪主は妻和子さん。後日、『お別れの会』を開く予定。 1955年に毎日新聞入社。東京本社学芸部長、学生新聞本部長などを経て、90年から日本記者クラブ事務局長。93〜97年は専務理事を兼務した」とある。日本記者クラブの事務局長はけだし適任であった。その温厚で喧嘩っぱやい人ともうまく付き合うことのできる人柄であった。名人事であったと思う。彼の父親は 同じ毎日新聞にいた石橋恒喜さん。2・26事件の際、陸軍省キャップで大活躍された。2・26事件に関する著書もある。白木は母方の名前である。昭和38年8月、私と白木さんは大阪社会部へ転勤を命じられた。東京駅で多くの社会部員たちが見送ってくれたが大阪行の特急列車の中で「なぜ二人だけが大阪に行かねばならないんだ」とボヤいた。翌年には東京オリンッピクが開かれることがわかっている。「お前たちには用がないんだ」と言わんばかりの仕打としか受取れなかった。後で考えれば新任の大阪本社・社会部長立川熊之助さんが「白木東洋は警察に人脈を持っている」と東京社会部デスク時代に知ったからであろう。白木さんは期待通りの仕事をした。夜廻り朝駆けの取材を事件がなくても毎日するようにした。捜査一課全員の名簿、住所録もそろえさした。警視庁時代の人脈を生かして関西電力会長の脅迫事件や北朝鮮スパイ事件などを特ダネにして一目置かれた。

 ロッキード事件では社会部長の私のもとで担当デスクを務めた。文字通り寝食を忘れて働いてくれた。毎日新聞がロッキード事件報道で大きく波に乗るきっかけを作ったのは『児玉誉士夫臨床尋問』の記事であった。才木三郎記者の情報が元であった。昭和51年3月5日の夕刊一面トップにでかでかと掲載された。白木デスクが「特ダネは派手な方が良い」とものすごく大きい活字を要求したという。夕刊には「10億円の脱税容疑・東京地検事件後初めて」の見出しが躍った。他社は東京地検に取材したが全面否定された。他社の夕刊は児玉の取り調べを一行も報道しなかった。他社の確認がとれたのは5日の夜になってからであった。ロッキード事件は新聞記者の良心と正義感をゆすぶった。それなりに成果を上げることが出来た。毎日新聞社会部編『毎日新聞ロッキード取材全行動』(講談社昭和52年2月20日刊)が疑獄事件取材の教科書となっているのを今は亡き白木東洋さんとともに喜びたい。


(柳 路夫)