2012年(平成24年)12月20日号

No.559

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

安全地帯(379)

信濃 太郎


現場は宝の山だ

 新聞記者の取材力が落ちたといわれて久しい。自ら取材せずに発表待ちの記者が多いと聞く。朝日新聞の名物司法記者であった野村正男の著書『自由人の眼』(一粒社・昭和45年5月15日刊)を見ると、原敬首相暗殺事件(大正10年11月4日午後7時26分に起きる)の犯人長岡艮一の日記を自宅から持ち去ったのは東京日日新聞の記者であったとある。特ダネであった。犯人がわかればいち早く犯人の自宅に取材に行くのは当たり前である。長岡の自宅は豊島区西巣鴨にあった。母親と妹一人と弟二人の五人家族であった。現場に着くのが早いか遅いかで勝負が決まる。

 著書にはこんな記述がある。山崎佐予審判事(医事法制の大家として知られる)が5日午前2時20分に日比谷署での長岡の取り調べを終え署長室に入ると、鈴木喜三郎検事総長が入ってきて「よくやってくれた。あれで大体わかった。これからも徹底してやってくれどんな問題が起きてもおれが責任を負う。時にすぐ家宅捜索をやってくれ」と御機嫌であった。「明朝やります」と答えたら「すぐやりたまえ」「日の出前、日没後はやれないことになっております」「そんなバカなことがあるものか、この大事件だ。夜中でもかまわぬからすぐやりたまえ」「しかし訴訟法でそうなっているから仕方ありません」といったら「鈴木検事総長は「林君(頼三郎・司法省刑事局長)豊島君(直道・大審院刑事部長)、主任判事は夜中家宅捜索は出来ないといっているがそんなバカなことはない、一つ調べてくれ」と声をかけたという。二人は六法全書を見ながら「すぐ家宅捜索しなくても適当な処置をしますからご安心ください」と言ったら鈴木総長は出て行ったという。

 鈴木検事総長は後に1924年(大正13年)清浦圭吾内閣で法相、1927(昭和2年)年田中義一内閣で内相。1931年(昭和6年)犬養毅内閣で司法相・内相、5・15事件後政友会総裁を務める。大変な辣腕家であった。鈴木検事総長の判断が正しかったと思う。家宅捜索の形を取らなくても家族の任意の事情聴取を行い、犯人の関係書類の任意提出を求めればよい。いくらでも理由がつけられる。当時、長岡の単独犯行と思われず背後に糸を引くものがいるものとみられていた。一刻も急を要する状況であった。

 戦後できた刑事訴訟法では「捜索」第百二条にこうある。「裁判所は必要がある時は、被告人の身体、物又は住居その他の場所に付き捜索することが出来る』日の出前、日没後の条件がなくなった。東京日日新聞にしてやられた苦い教訓があったのかもしれない。それでも記者たちに言いたい。検察陣はひょっとしたら日の出前、日没後は捜索をやらないかもしれない。そこがつけ目である。大事件が起きたら容疑者の自宅、関係個所には足を運んで日記、メモなどを持ってくることだ。現場は宝の山である。