2012年(平成24年)12月10日号

No.558

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(474)

中村勘三郎逝く

 

 中村勘三郎逝く(5日)。享年57歳。「挑戦するたびに光を増した鬼才」を惜しむ声が多い。スポニチに在籍したおかげで楽屋の勘三郎さんと会い、競馬の話までした。勘三郎・勘九郎親子の連獅子を企画、無理を聞いていただいて実現できた。さらにお芝居もたくさん見せていただいた。その舞台はうまいと表現するほかない。バランスがとれ絵になる役者であった。にじみ出る“遊び心”は天性のものであろう。なんとも心地よかった。神様はときにこのような”異才”を早くあの世に召される。なぜか・・・私はむごいと思う。

 勘三郎は常に新しいものに挑戦する。山田洋二監督に「『文七元結』をシネマ歌舞伎で撮ってください」と頼む(2007年9月製作発表・2008年10月全国公開)。この時、勘三郎の頭の中には祖父・6代目菊五郎が昭和10年に小津安二郎監督で撮った『鏡獅子』のことがあった。山田監督にしてもたまたまニューヨークでシネマ歌舞伎『野田版鼠小僧』を見て「これは新しいメディアだ」だと感じるところがあった。私はこの『文七元結』見た。大川端の場、左官屋の長兵衛(勘三郎)がスリに50両を盗まれた手代文七に借りて来たばかりの50両を叩きつけ「死ぬなよ」と叫んで立ち去るシーンなど今なお心に残る。勘三郎の所作が絶品である。

 さらに言えば勘三郎の徹底した写実味へのこだわりである。「6代目の写真集を見ると実際の街角を撮ったような舞台写真がある。貧しい家の装置なんてものすごい。極貧さが畳や柱から匂ってくる。それもただ汚したものでなく生活感のある汚さです」それを山田監督に話をし、このシネマ歌舞伎にも演出された。

 勘三郎は「スクリーンに再生されたリアルな世話物。この後も舞台で長兵衛を演じる際にはこのやり方を自分の『型』として大切にしたい」と言っていた。芸にはまことに貪欲な役者であった。かえすがえすも惜しい人物を亡くしたものである。合掌。


(柳 路夫)