安全地帯(378)
−信濃 太郎−
嫌いな言葉「よろしくお願いします」
つい最近、30年前一緒に毎日新聞東京社会部から大阪社会部へ転勤した友人が死んだ。その時ほろ苦い体験を思い出した。入社15年目であった。真面目に仕事をしてきた。この時の社会部の異動は16人に上った。名目は『東西交流』であった。この大異動には裏があった。
当時、組合で「議事規則改正」問題があった。これは闘争委員会の設置を決める時、大会の三分の二ではなく、過半数で決めるという改正問題であった。労働組合の利益から考えれば過半数で物事を決めるというのが当たり前である。社会部で部員が集まってこの問題について組合会議が開かれた。その会議で私を含めて16人が過半数説に賛同した。あとで聞いた話だが社会部の“過激分子”を一掃するためこの時、デスクの一人が発言者の内容をメモしていた。その16人全員が異動させられた。私は毎日新聞で骨をうずめる気持ちであったので大阪行きを即座にOKした。昭和38年8月1日付で辞令は出た。東海道新幹線開通1年2ヶ月前のことであった。翌年には東京オリンッピクが控えていた。
大阪社会部デスクに就任した私はその日の夕刻開かれた社会部会で挨拶した。「私は慣用句が嫌いです。だからよろしくお願いしますという言葉は使いません」。この言葉が部員の反発を呼んだ。「よろしくお願いしないならまずはお手並みを拝見しよう」という態度に出た。私は自分で企画をたて支局や各本社に依頼して原稿を作った。サブデスクが協力してくれた。入社は先輩であった。そのうち遊軍たちも私の気気持ちも人柄も分かってきてとげとげしい雰囲気がいつの間にかなくなってきた。大阪へは単身赴任であった。宝塚沿線の池田の団地住まいであった。非番の時は腹がすいたら食事を作り食べる、気ままな生活であった。本をよく読んだ。一番勉強できた時代でもあった。こんなことがあった。昭和38年12月,大阪の中学生の集団家出を朝日新聞に抜かれた。その日の夕刊デスクであった私は前夜、たまたま読んでいた岩波新書の「中学生」(作者佐山喜作・1963年刊)にヒントを得て1面から社会面まで中学生の進学問題でうずめた。夕刊ではどちらが抜いたかわかなくなった。
今でも「お願いします」と言う言葉が大嫌いである。「お願いします」と言うなら具体的にどんなことをお願いするのかいえばいい。テレビでよく歌手たちが歌う前に「よろしくお願いします」を口にする。「何をお願いするんだ」と言いたくなる。今の時代は政治家も含めて大衆に”媚び“を売る時代かもしれない。ポピュリズムの隆盛がこの言葉を生んでいる背景かもしれない。新聞記者は慣用句を避けるべきである。
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