最近おかしな夢を見た。すべてに慾がなくなり食欲もなくなった。やがて何も食べずに死んでゆく。ミイラの如く、古木の如く死に果てる・・・・。「夢は何らかのメッセージを与える」と言われる。この夢のメッセージがわからない。考えている時にNHK・BS3で『最後のガチンコ』―新藤兼人と乙羽信子・夫婦の絆と愛の物語―を見る(10月14日)。
乙羽信子は1994年(平成6年)10月22日に死去(享年70歳)するのだが、新藤監督は肝臓がんで余命があまりないのを知りながら乙羽信子に最後の仕事をさせてやろうと杉村春子と共演の『午後の遺言状』を作る。乙羽信子は癌が進む中、最後まで頑張る。「先生」「乙羽さん」と呼び合うおかしな夫婦である。先生は家庭では乙羽さんの面倒をよく見る。「痛い」といえば、背中までさする。何もしない私などは感心する。先生は仕事では妥協をしない。あるシーンでは納得がいかないと再度演技をさせる。何故か二人のセリフが消えてしまうと監督が感じたからである。その理由は障子が開いていたため庭が明るく見えるからであった。そこで障子をしめてOKとなる。新藤監督の神経の行き届いているのには驚く。
乙羽信子は新藤監督の第1回作品『愛妻物語』《1951年・昭和26年・大映東京》から新藤監督の全作品に出演している。「原爆の子」(昭和27年・民芸との提携作品)は昭和25年旗揚げした近代映画協会の第一回作品。乙羽信子は教師役として出演する。苦しい製作条件の中で49日間の広島ロケと東京でのセット撮影を15日間行っている。宿泊代は500円。3食付である。常識の3分の1の値段である。費用は民芸と近代映画協会がそれぞれ150万づつ出しあう。製作費は1千5百万かかったが興行的には成功しておつりが出たという。こんなエピソードもある。ピカの瞬間の被爆者の裸像をとる必要があった。学校の許可を得て比治山高校の女子生徒が出てくれることになった。裸になった女子生徒達の上半身にドーランを塗り被爆の傷痕をつくる。他人の見世物になったのではいけないので撮影は学校の屋上で行った。万事に広島の人々が良く協力してくれたそうだ。
モスクワ映画祭でグランプリを受賞した『裸の島』(昭和35年)はわずか13人のスタッフと二人(乙羽信子・殿山泰司)の俳優がロケ地近くの島に合宿、報酬は生活費の3ヶ月分、製作費500万円であった。モスクワ野映画祭の記者会見で100人余りの記者たちはスタッフが13人しかいないと聞いてだれも信用しなかったという。しかもこの映画は全国の貸しホール、公民館、名画座などで公開された。この作品で新藤監督も乙羽信子も大きく飛躍する。その後のふたりの歩んだ苦難の軌跡を見ると、なるほど「先生」「乙羽さん」で呼び合うのが一番似つかわしいのかもしれない。
さて『最後のガチンコ』のドラマの中でスタフの一人の父親が肝臓がんで危篤となり帰郷する際、新藤監督が書いた色紙に『人は生きている限り人は生き抜く』とあった。今年5月24日、100歳で死んだ新藤監督を見ればまさにその通りの生き方であった。私の夢のメッセージは逆夢で『生き抜け』と言うことのようであると悟る。
(柳 路夫)
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