1998年(平成10年)12月10日(旬刊)

No.60

銀座一丁目新聞

 

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茶説

裁判官の「市民的自由」を考える

牧念人 悠々

 「裁判官の市民的自由」について考えてみたい。「表現の自由」もからんでいるので関心がそそられる。

 仙台地裁の判事補(34)が、組織的犯罪対策法案の反対集会で発言したというので、仙台高裁で戒告処分を受けた。それを不服とした判事補の即時抗告を最高裁が棄却の決定を下した。「積極的な政治活動」を理由に懲戒が認められたのは初めてだという。

 筆者などは集会で発言したからといって、裁判官にあるまじき姿勢だとは思わない。法律の専門家として所信を述べる方が集会に参加した人々には参考になろう。むしろ、その方が市民としての義務を果たしたことになるのではないだろうか。この程度の表現の自由は認めてもいい。

 最高裁としては、このようなケースでは“黙っていろ”“集会なんかに出るな”と言いたいのであろう。

 人を裁くというので、裁判官は公正・中立を求められている。たとえば、みだりに知人と会食したり、ゴルフを楽しんだりしてはいけないとか、「市民的自由」はかなり制限されている。もちろん政治運動をするのはもってのほかである。裁判所法で“積極的な政治運動”は禁止されている。

 一般人と違ってかなり裁判官は不自由である。本人が公平・中立であるばかりでなく、国民から公平・中立であると信頼されなければいけないといわれているから身は固く守らねばならない。まことに難しい職業である。

 もっと自由にさせたらどうかと思う。人情の機微を知り、粋も甘いも味わった方が裁判はうまくいくのではないか。世間の常識を一歩先に行く必要はないにしても、世間さまに合わしてもいいであろう。その上でちゃんと「公平・中立」の枠を守ればいい。国民は安心して納得する。

 今回の分限裁判には弁護士会などから反体声明が相次ぎ、判事補の代理人に1000人を超す弁護士が名を連ねたというではないか。

 「天使の辞典」(トラ・アンジェリコー訳編)によると「裁判官」を次のように説明する。
――裁判所で裁判事務を担当する国家公務員で、その自主性を最大限に保護するために、すべての権力から独立し、憲法および法律にのみ拘束されると「広辞苑」に定義しているが、この定義には 一項目が脱落している。それは「……それゆえ、裁判官はいっさいの世間の常識に拘束されることなく、徹底的に非常識に振舞う権利を最大限に保障されている――

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