2012年(平成24年)9月10日号

No.550

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花ある風景(467)

 

並木 徹

 

写真家下岡蓮杖の世界を観る
 

 「下岡蓮杖の世界」―150年を遡る幻の古写真―を見る(8月31日・東京・千代田区一番町JCUビル)。会場に展示された写真は150年前(慶応2年=1866年から明治4年ごろ=1871年)の江戸の風物を示すものばかりである。明治の初めの日本の姿がここにあると思うと心の高揚を抑えかねた。

 下岡蓮杖は伊豆下田の人。初めは画家を志したが写真に魅せられて日本の営業写真師の開祖の一人となる。横浜で初の写真館を開業したのが文久2年(1862年)。文久2年と言えば坂下門外の変、島津光久公武合体調停を企図、寺田屋騒動、生麦事件などが起き、物情騒然としたころである。時代の転換期であった。

 橋の写真がかなりある。神田川にかかる「水道橋」の写真(明治4年)。もちろん木造である。驚いたことに数人が泳いでいる。橋の後方に神田上水の掛樋が見える。井の頭の湧水を通すためである。「呉服橋と呉服橋門の高麗門」の写真(明治4年)。江戸城の周りにはお濠が張り巡らされ敵に備えていた。平和になって舟運の便に供されるようになった。北から「竜閑橋」「常磐橋」、道三掘にかかる「銭瓶橋」(写真あり)「一石橋」と続く。その近くに呉服橋がある。その傍に北町奉行所があった。「平川門から竹橋門」の写真(明治4年)。大手掘、平川堀があり、北側に一橋家、清水家、田安家と徳川一門の邸宅が取り囲んでいた。平川門には門限に遅れた春日局がここで一夜を明かしたという伝説がある。竹橋には竹橋御蔵があった。

 画家でもあった蓮杖が24才の時(弘化3年・1846年)幕府に命じられて仲間数人とともに浦賀久里浜沖に停泊した2隻の米艦に乗り込み、3日間をかけて内部をくまなく描写した。その後も何度か外国船が来るたびにその仕事を任された。

 人物像も撮る。「休憩のひととき」、二人の座った娘さんと屏風にもたれたいなせな若者。「雨の日の侍」、麦藁の合羽に笠をかぶる。刀が見える。履物は下駄。「そばの出前持ち」、「物もらひ」、「役人」、「三味線持ち」、「火消の気合」、「薪を運ぶ女性」、「少年侍」、「商人と番頭」、「町人の夫婦」「侍の息子と祖母」「甘酒屋と客」「三味線を弾いてくつろぐ女性たち」「傘をさす女性」「農夫」などがあった。江戸を東京と改称したのは明治元年7月17日。維新の大号令がかかっても庶民は生きてゆかねばならない。明治4年の東京の人口は67万1748人。東京・築地居留地在住の外国人は米国20人、英国16人、フランス6、プロシャ10人、オランダ2人、スイス6人、ポルトガル2人、中国10人であった。このころの物価を調べてみた。1円で買えるものは、米2斗9升、麦2斗8升、塩42貫目,みそ12貫5百匁,醤1斗3升5合、油2升5合、酒1斗、炭30貫,砂糖7斤半、茶2斤半、たばこ2斤半などである(明治・大正・昭和世相史・社会思想社刊)。

 写真家・下岡蓮杖が心がけたのは風景をいかに美しくそのまま撮るかと言うことではなかったのかと思う。彼には確固たる志があった。

 下岡蓮杖は「写真家は立派な芸術家であります。写真師はいつもその考えを持っていただきたいと存じます。私は平生横山松三郎(弟子)に申しつけて客がオイ写真屋なぞと失礼なことを申したら,決して写すなよ、と訓諭しておりました。横山は元来気骨ある男でしたから,申うされるまでもなく、常に己は写真屋ではない。先生だと威張っておりました・・・」と言っている。

 風景写真も撮った。「鎌倉の大仏」「横浜 根岸の競馬場」「鎌倉 鶴岡八幡宮」「須走から望む富士」などがあった。掛け軸「無題」(大正元年・1912年・90歳)にはつぎの「賛」がある。「未来にも酒と肴があるならば、飲んで暮らすか それが極楽」「有難や 南無酒無二 如来様 飲む阿弥陀仏 五升(後生)一生」「酒あらば 無理に未来へ行かずとも いっそ死なずに 生きて飲むべし」

 酒をこよなく愛した蓮杖はその2年後、大正3年3月3日、92歳で亡くなった。この8月30日には天皇、皇后両陛下が親しく御覧になられた。人の命は短くとも芸術は長い。