2012年(平成24年)7月10日号

No.544

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追悼録(459)

大東亜戦争全戦没者合同慰霊祭開かる

 

 大東亜戦争全戦没者合同慰霊祭が偕行社、水交社等41関係諸団体によって靖国神社で開催された(7月7日)。参列者163名。まず、田櫓雅之さんのトランッペト伴奏で『君が代』を声高らかに斉唱する。ついで戦没者慰霊団体協議会の島村宜伸会長が祭文を奏上、戦没者の霊に思いをはせ、英霊事業を永続することを誓う。東京裁判に7人の法務死を含めて大東亜戦争の戦没者は二百三十万人に上る。この犠牲者の上に今日の日本の繁栄があるのを多くの国民は忘れている。一人の戦争未亡人が歌った「かくばかりにみにくき国となりたれば捧げし人のただに惜しまる」の歌が思い出されてならない。大穂孝子さん指揮の世田谷コールエーデ合唱団によって「ふるさと」「七夕」「遥かなる友に」の合唱が奉納される。この日は七夕様。あいにくの雨模様であった。それでも16人の女性合唱団の「染めて流れる天の川・・・」のハーモニーが心に響く。

 7月の靖国神社社頭の掲示は次の通りであった。
 皇后陛下御歌 歌会始御題 月 「年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて」

 遺書『雑煮も汗を出して腹一杯戴きました』陸軍伍長松浦義一命
 昭和18年1月10日ソロモン群島ガダルカナル島タサワロングにて戦病死。愛知県東春日井郡小牧町出身25歳(この手紙はガ島に来る前の他の戦場から出したものと思われる)。

 昭和18年1月、ガ島は米軍に制海権も制空権も握られ日本軍は防戦一途であった。餓死するものも少なくなかったといわれる。2月1日には日本軍はガ島から撤退する。「後に続くものを信ずる」の遺書を残して、ガ島で若林東一大尉(陸士52期)は昭和18年1月14日に戦死される。部下の第二小隊長竹内広一中尉は「初春を祝う糧なき勝ち戦さ」の句を残している。

 参列者全員が昇殿参拝する。20人の方々が玉串奉奠、それに合わせて二礼二拍一礼をする。私は「生涯ジャーナリスト」として生きることを誓う。私たちの同期生も13名が合祀されている。来年の最後の全国大会に有志同期生による追悼慰霊祭を開く予定である。そのことも併せて報告する。


(柳 路夫)