安全地帯(363)
−湘南 次郎−
お江戸日本橋掛替渡初」の一件
先日、江戸東京博物館に特別展があったので、はじめて見学に行った。生まれ育った東京の住居から神奈川に移って35年、疎遠になった郷土東京の博物館の豪華さ、内容の豊富さに驚嘆し、自分が田舎者になったのを実感した。横浜の神奈川県立歴史博物館、福山の広島県立歴史博物館も見たがそれどころではない。2時間ばかりひまがあったので出かけたが遂に半分も見られず、ウロウロのおかげでその夜、足がつって難渋するおまけまでくっついてしまった。
当日は会館20周年特別展で「描かれたランドマークの400年日本橋」の特別展を行っていた。ちなみに大阪では「にっぽんばし」、東京は「にほんばし」と呼んでいる。何回かの掛け替え工事完成時の渡り初め風景の時代別展示がしてあり、そこで面白いものを発見した。
ころは文政5(1822)年6月、「日本橋掛け替え渡り初め五夫婦の口上」の文書で、つまり渡り初め希望の申請書が展示されていた。今でも大きい橋が出来ると大体、三代続く(当主、子、孫)夫婦が紋付、羽織、はかまで渡り初めをする風習が残っているが、提出したのは、盛岡一戸(いちのへ)村、山崎清左衛門、苗字があるのはある程度の名士と思はれる。その五代も続くメンバーの年齢がすごい。それをご披露しよう。なお、参考に今は80才前後だが、当時の平均寿命は調べてみると、幼児の死亡も多く30才台から50才位までとの諸説があるようだ。
山崎清左衛門 143才 妻 139才
倅(せがれ) 112
109
孫 92 89
曾孫 70
68
玄孫(やしゃご) 41
39 (名前は省略)
以上が真面目な文書であり、何回読んでも間違いはない。びっくりした!荒唐無稽、おかみを愚弄(ぐろう)するにも程があったのであろう。召し捕られ入牢になり、不運にも牢死したそうで、結果として命懸けの申請になってしまったのは気の毒だ。解説で、実際の年齢は80才台だったらしい。なんだか、当時の大らかさがある茶目っけが判ったような気がした。
どこかの方々は沢山の金がありもしない、出来もしないのにおごってやるよ、「ナニナニ生命」を懸けてとウソ言っているよりは軽いお座興かなと、変な合点をし、ご冥福を祈り再訪を胸に博物館をあとにした。
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