2012年(平成24年)7月1日号

No.543

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追悼録(458)

藤原岩市中佐と「F機関」

 

 藤原岩市著「F機関」が7月1日に復刻出版される。書棚に原書房から出された「F機関」があったのだが探しても見つからなかった。藤原さんは陸軍中佐、陸士43期、陸大50期。大東亜戦争直前の昭和16年12月5日に南方軍参謀になり、インド工作の密命を受け、タイ国に潜入、開戦と同時にF機関長としてインド兵俘虜工作を始め大きな成果を上げる。後のインド国民軍創設の基礎を作った。英国の植民地であったインドを独立させた起爆剤を作るのに手を貸した日本軍人であった。だから今でインド人の中にはチャンドラ・ボースとともに戦った日本軍人として「藤原岩市」の名前を知っている人が少なくない。この事実からも日米戦争は「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」と呼ぶのがふさわしい。

 藤原岩市中佐がそこで何をしたかを物語るエピソードがある。敗戦後、藤原岩市中佐は英軍関係の戦犯に問われた。昭和21年3月、シンガポールのチャンギーの刑務所に送られ、尋問を受けた。その尋問は厳しいものであった。第25軍の参謀としてマレー作戦に参加した杉田一次大佐(陸士37期・陸大44期・戦後自衛隊陸上幕僚長を務める)も英国側の戦犯になりチャンギ―刑務所に送られ過酷な尋問を受ける。朝夕の食事は毎日お粥程度のもしか与えられず、夜半監視兵にたたき起こされ、睡眠を妨害された。彼らの尋問、追及は報復の何物でもなかった。杉田大佐は『死の抗議」をして自決をはかるのだが発見が早く、果たさなかった。その際、抗議文を残した。「今まで英国(人)は紳士の国(人)として尊敬してきたがシンガポール出の戦争裁判は紳士の道より逸脱し、復讐の他ならない」。自決未遂後、英国の戦争裁判は緩和されたという。

 藤原さんは有罪にならなかったが、この後、さらにクアラルンプールのイギリス軍情報部から、F機関とインド国民軍結成について取調べを受ける。尋問した英軍の陸軍大佐が言った。「貴官の工作は、まことにグローリアス・サクセスであった。貴官のような語学も出来ない情報の素人がこのように成功した理由がわからない。どんなテクニックを使ったのか、その成功の原因を答えて呉れ」。それに対して「テクニックなどない。ただ、現地人に対する、敵味方、民族の相違を越えた愛情と誠意を硝煙の中で、彼らに実践感得させる以外になかった。至誠と信念と愛情と情熱をモットーに実践これを務めたのだ」と答えた。英軍の大佐は「わかった。貴官に敬意を表する。自分はマレー、インドなどに二十数年勤務してきた。しかし現地人に対して貴官のような愛情を持つことが出来なかった」としみじみと言った。このような日本軍人もいた。当時、藤原岩市さんは少佐で33歳であった。

 彼は戦後自衛隊に入り陸将にもなり師団長も務めた。調査学校の校長の時、教育方針として「智・魂・技」の三文字を掲げた。女婿で元陸幕長の富沢暉さんは「旧陸軍時代『魂』だけで務めた自らを反省して戦中は敵の英国から学び、戦後は友邦たる米国から学んだ『智と技』を加えたものと思われる』と解説する。藤原岩市元陸将は昭和61年2月、死去、享年77歳であった。


(柳 路夫)