2012年(平成24年)7月1日号

No.543

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花ある風景(460)

 

並木 徹

 

 画家・高橋由一の世界に遊ぶ
 

 去る日、東京・上野の芸大美術館で開かれた近代洋画の開拓者「高橋由一展」を見る(6月21日)。まず飛び込んできたのが弟子の原田直次郎描く「高橋由一像」。由一の晩年(明治26年)の肖像画である(明治27年7月、67歳で死去)。恩師の表情を生き生きと伝えているといわれる。白いひげ。眉、濃く逆八、意志の強さが感じられる。古武士の表情がうかがえる。由一は武家の生まれである。2歳の時絵筆をとって人面を描いて母たちを驚かしたという。

 「花魁」(明治5年作・重要文化財)に足が止まる。モデルは美人と知られた新吉原の娼妓小稲。東京日日新聞(明治5年4月28日)の記事によれば当時欧化風の風潮に陰りを見せ始めた日本の結髪風俗(兵庫下髪姿)を盛り返そうとして由一に「花魁」を描かせたらしい。同紙は「若僧正もみだらな心を動かすほどの絵の出来栄え」と伝える。更に「誰もが浮世絵に描かれたいという中で、進んで油絵に描かれた」ことについて「小稲の文明,衆妓に越えたり」と称賛している(今吉賢一郎著「毎日新聞の源流」・毎日新聞刊)。だが、モデルの小稲は作品を見て泣いて怒ったという。カタログの表紙にもなっている「花魁」であるが、たおやかな美人と言うよりこわばった表情の、どちらかと言うといかつい、男性的な感じがする。小稲が怒るのも無理がないという気がする。

 「日本武尊」に引き付けられる。何故に由一が日本武尊を画の対象にしたのかと考え込む。下野国佐野藩士の嫡子の由一は幼少のころから四書五経、日本書紀、古事記などの素読をさせられたのであろう。神話に関心があったに違いない。最近、観劇した四代目市川猿之助が新橋演舞場で演じた「ヤマトタケル」の舞台姿とだぶる。エゾ征伐を命じられた日本武尊が相模国焼津の野原で国造の謀略で火攻めに会う。剣で草を払い火打ち石で迎え火を起こして難を逃れる図である。「ヤマトタケル」の原作者梅原猛は由一の「日本武尊」の絵を見たのであろうか・・・

 この日、朝10時半に会場に着く。かなりのにぎわいであった。人気のスポットは『鮭』。教科書にも切手にも採用された絵である。三幅の鮭が飾られてあった。製作は明治9年から11年ごろ。見ていても飽きない。外人の絵にない独自性を持つ。家庭の柱にかけともよい縦長の画面であるのも一つの特徴であろう。何故鮭を描いたのか。それは由一の好奇心が旺盛であったからであろう。目に触れるものすべてわが師であり、わが材料であった。あとはどのように料理するかであった。本場の西洋画を知らずに写実に挑んだ男がどえらい果実を残してくれた。感謝のほかない。去りがたい思いがした