安全地帯(362)
−市ヶ谷 一郎−
古都鎌倉の泣き所
新緑の候、草萌(も)える古都鎌倉は、年ごとにますます増える観光客でにぎわっている。特に源頼朝の開いた武家政権発祥の地であり、東京、横浜からも近く、神社仏閣、古跡あり、海あり、山あり、夏涼しく、冬は温和で最もポピュラーな日帰り観光地である。
鎌倉は、頼朝と結んだ公家九条兼実の日記「玉葉(ぎょくよう)」に「鎌倉城」と表現のある通り三方、山に囲まれた要害の地である。横須賀線であろうと、江ノ電であろうと、トンネルをくぐらなければ旧の鎌倉中(じゅう)(昔の呼称)には入れない。ご承知のように入るには幕府は、「切り通し」として七か所、主要街道の出入り口を開削し、否応なくそこを通るようにした。
「切り通し」にしたのは戦術上、敵の侵入を防ぐ目的で、道にわざと大きい石を置いて馬や歩行者の通行を妨げ、両側をがけとし、上から矢を射るようにしている。それが、今でも残る鎌倉七口である。また、東方の逗子の近くには、三浦一族を警戒し「切り岸」といって山を削りがけを作り、侵入を防いだところが今でも残っている。とにかく火器、航空機の無い時代の防御陣地はこんなものであったのであろう。
大正12年9月1日11時58分32秒相模湾の北西80qを震源とするマグニチュード7.9の大地震と大津波、同時に火災も発生、鎌倉は完全に壊滅した。折から皇室、名士、文人、墨客たちの避暑地としても利用されていたが一般市民も含め、多数の圧死、溺死、焼死者を出した。今でも各所に供養塔が建っている。多くの寺は上屋が重く、下は柱だけであるので殆ど倒壊し、鎌倉特有の岩盤の上の薄い地層に根を張る樹木が多く、揺れながら地滑りとともに落下した。
そこで、もし、その大地震のような天変地異が発生したらライフラインはズタズタになるだろう。まず、考えなければならないのは、交通である。現在も鎌倉へ入る主要道はトンネルを通る。道路は山の間を抜けねばならない。各所のがけは崩壊を覚悟しなければならない。いまでも片側一車線の狭い道路が殆どで、寸断されてしまうであろう。むろん鉄道は不通だろう。古来鎌倉は水の少ないところ井戸水の質は悪くてまずい。鎌倉十井(じゅっせい)といわれ10か所の井戸の水でも名水として珍重されるようなところだ。まず、水は絶対不足する。もちろん、給水車は道路のがけ崩れ、家屋の倒壊で入って来られない。つぎに下水処理だが停電・断水でアウト。海は遠浅で救援の船は入ってこられない。空挺やヘリ部隊、上陸用舟艇では、たかが知れる。孤立するのは目に見える。そして、平らなところは殆ど海抜10m以下、さあ、どうする。ともあれ、復旧するまでは、とにかく市の中でやりくりしなければならない。「鎌倉城」の泣き所は現代でも脈々と生きている。
「治にいて乱を忘れず」世界遺産の申請は可とするけれど、防禦し易い鎌倉ほど逆に孤立する都市は珍しいのではないか。おまけにご承知のように相模湾沖は地震の巣窟である。鎌倉観光やサーフィンも結構だが、お出かけの時は万一の備えに水と非常食、蚊よけぐらいはお持ちになった方が良い。いくら、鎌倉市が安くない住民税を取り立てても、観光客救援のことをどこまで考えているか疑問である。最近市内各所の津波被害が予想される地域の電柱に海抜○mと標識を設置したのでご注意ください。標識を見てイザとなったら山は近いですからがけ崩れに注意しながら、よじ登って避難してください。
(筆者撮影)
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名越えの切り通しと置石 |
大切岸(人口のがけ) |
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釈迦堂切り通し(七口切り通し以外) |
津波注意の海抜 |
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