2012年(平成24年)6月20日号

No.542

銀座一丁目新聞

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追悼録(457)

余り知られていない供養の話

 

 お盆が近くなった。日本人は、古来、死者への鎮魂は大らかであった。憎しみで死体を乱暴したり、墓をあばいて乱暴したりすることは、余りない。むしろ、死んだら敵味方を問わず鎮魂する美徳があったようだ。もちろん死者のたたりを恐れ、また、死体の処置に困ったこともあったと思われるが。

 藤沢駅北口より10分、時宗(じしゅう)総本山遊行寺(ゆぎょうじ)には国指定史跡「敵味方供養塔」が建っている。これは応永23(1416)年10月6日足利尊氏より五代の鎌倉公方足利持氏に補佐役の上杉禅秀が反旗を翻し、関東一円に戦いが始まり、翌年足利幕府の加勢でおさまったが、犠牲者が多数出た。これを遊行寺の時宗14代の太空上人が敵味方の区別なく平等に供養するため、建立したものである。また、高野山には豊臣秀吉の朝鮮出兵の敵味方供養塔があり、北九州には各所に元寇で台風に遭い犠牲になった蒙古兵の塚がある。

 ただ、甲府市の武田信玄火葬塚(3年死を秘し仮埋葬し火葬した場所)の近くに河尻塚という墓がある。織田信長の武将河尻秀隆は武田家を滅ぼした功績で甲斐を拝領したが、過酷な取り立てで住民を苦しめた。それが、本能寺の変で主君信長が倒されるや、立ち上がった土豪や民衆の襲撃を受け殺害され、遺体はこの地に穴を掘り、逆さ吊りにして埋けたというとんでもない特例もある。

 鎌倉の九品寺(くほんじ)(鎌倉市材木座)は新田義貞が鎌倉攻めで北条氏を滅ぼし、敵味方供養の寺として建立している。現存してないが永福寺(ようふくじ)(鎌倉市二階堂)は頼朝が奥州藤原氏を討った後、平泉の藤原氏の寺、毛越寺(もうつうじ)を真似て敵味方鎮魂のため、壮大な寺院を建立する。

 ところが、このお話も明治のご維新の内戦ではおかしくなってくる。但し、これには反論もあり、風聞としておく。徳川幕府軍と薩長の新政府軍が戦った戊辰戦争で、静岡県清水港では難破して避難してきた幕軍の咸臨丸が白旗を掲げているにもかかわらず新政府軍が襲撃、乗り込んで殺傷し、死体を海に放置した。政府軍はその死体を処置するのを禁止した。見るに見かねた清水の次郎長が「敵味方あるものか」とタンカをきって引き上げ興津の清見寺に葬った。今でも供養の碑がある。

 会津若松城の落城後、新政府軍が会津軍の戦死者の死体を数カ月放置して処理させないよう厳命し、始末した者を処分した。戊辰戦争最後の激戦地函館では函館山東麓にいまでも「碧血碑」という立派な碑が建っている。これは陸軍士官学校同期の故 開 眞(ひらきまこと)君の祖父たち土地の有力者が市内に放置されていた幕軍の戦死者を命がけで収容し建立したもの。江戸では上野山で戦った幕軍の彰義隊戦死者も放置させられたらしい。西国にはいやな風習が残っていたのか、憎悪が未だに残っていると聞く。


(市ヶ谷 一郎)