安全地帯(361)
−市ヶ谷 一郎−
38度線の攻防
朝鮮半島を南北に分断しているのは、主として北緯38度線である。今も休戦状態にあり緊張が高いが、今日の話は全く違う38度の話である。
数年前のことであった。私の人生80数年、生まれて初めて入院した。もっとも、今の女性はだいたい病院で出産するが、私の生まれたころは自宅でお産婆さんが取り上げたので入院はしてないはずである。
一週間ほどせきと38度以上の熱が続き治らないので、フラフラしながら家内に連れられS病院へ診察のため行ったところ、医者が言うには血液検査で炎症反応(CRPというのだそうだ)が普通の100倍にもなっている。帰らずすぐ、入院ということになった。家内に聞くと雪が降るので急いで入院の用意を整えたとのことだった。炎症反応とは体に炎症が起きていることを示すサインとか。なにがなにやら判らずのうちに8人部屋へ押し込まれる。その夜はせきが出て迷惑かけるのを気にしてがまん、タオルで口を押さえたりして眠るどころではなくこれで病が治る訳もない。早速翌日家内に個室を頼ませるがあいにく満室。この時ばかりは誰かが退院か、悪いけれど昇天かを願うのみ。来る看護婦、配膳や掃除のおばさんまでにも頼む。
数日の後、ついに念願かなって空室が出来、移動になる。家内は何度も入院のベテランなので、個室は嫌い、怖いそうで余り理解が無い。こちらは初めて病気で金を掛けるんだからとノーテンキ、ふところは家内に任せ(恩にきました)、鷹揚に構える。それからは、変なストレスも無くなり治療に専念できる。とはいかないのがこの世の常、ここはホテルとは大違い。連日連夜ヘトヘトになるほど、検査、検査の連続、病院にこんな器械があったのかと驚くほどである。ところで、本題の38度である。私の闘病日記によれば朝38度でも午後、夕刻は40度になり、せきは止まったが高熱のため寝言や幻覚症状も出たらしい。
まさに、38度線の朝鮮戦争さながらの攻防だったようだ。
医者は炎症箇所がまだ判らぬらしい。点滴はいつもお伴でくっついているし、夜中にふらついてシビンをひっくり返し、いやな顔もしないで孫のような看護婦さんに片づけて貰って恐縮したりしながら、闘病する。このころが最悪で、飯も食えず、1日1`体重が減少、鏡を見て死んだ時のオヤジの顔に似てきたなとつまらぬ感心をする。今は幸せ、やりたいことはやってきた。苦しまずこんな程度でお迎えなら、ま、いいかと頭をよぎる。
しかし、医師は手を変え品を変え、三回目の抗性物質が効いたらしい。12日ほどたって徐々に38度前後と下がり始め、意識も正常になって来る。いよいよ回復期に入ったか。ここでそろそろ我がまま虫が出てくる。飯がまずいから美味い弁当を作ってこい。病院食は残りを調べられるので家内に食べさせる(どうもすみません)。考えようによっては、あげ膳、据え膳、周りは、ハキハキ元気のいい若い看護婦さん。ゴミ出しの役目もないし、草むしりもない。気がね無く、ゴロゴロしてテレビや本を読んだり、昼寝をしたり、車いすで移動もできる。医者お抱えとこんな天国はない。まして、廊下へ出ると大船の観音さまが拝めるのである。家内の心労やふところは別とし、病院の個室も考えようによってはムベなるかなである。また、某日は、陸士の同期生で毎月ゴルフを一緒にやっていた二人の元自衛隊の将官クラスの友が見舞いに来てくれた。将軍が2人も見舞いにとは、戦前ならたいへん、おれも偉くなったもんだと大笑い。友の情けが身にしみるひと時であった。
入院20日が過ぎた。しかし、最後まで病名ははっきりしなかった。もうそんなことはどうでも良かった。いよいよ、退院と医師より宣告があり、看護婦さんにもおめでとうを言われる。「格子なき牢獄」へ帰るよりここのホテルの方がいい。医師に退院が土曜日なので済みませんが月曜日にしてくださいとお願いする。退院を延ばすのは珍しいと笑われたが、とにかく病院のみなさんにご挨拶して月曜日めでたく退院。家内には「有り難う。余生よろしくお願いします」だ。
診断書によれば病名はなんと「不明熱」。こんなオチがついたような病気、おれに判る訳がない。
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