2012年(平成24年3月1日号

No.531

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追悼録(446)

南昌市長から送られた漢詩

 

 沖縄戦で戦死された上野貞臣少将(陸士30期)の遺品の中に昭和14年12月、中国・南昌市長から送られた感謝の漢詩がある。上野少将(当時は少佐・昭和18年8月大佐)は昭和14年8月、南昌を中心にして付近の警備にあたっていた101師団(師団長・斉藤弥平太中将・陸士19期)の参謀として行政・諜報を担当していた。101師団はこの年の春、南昌(漢口の東南約150q、上海の西南約600qにある)を攻略、日本軍政のもと、軍紀厳正に治安が維持され復興が進んでいた。上野少将の物腰柔らく真面目で理非を明らかにする態度に南昌市長萬煕氏が感激して七言律詩を送ったもののようである(有力者の結婚式に招待された写真もある)。題名は『上野参謀復興南昌』である。しかも詩に題名が繰りこまれている。

 上国衣冠 拝冕旒
 野人献曝 勝披裘
 参軍俊逸 非凡度
 謀士才情 第一流
 復古甘心 居後楽
 興華有願 輒先憂
 南朝寺観 同祈祷
 昌大神州 更亜州

 上野少将の息子である上野貞芳君(陸士59期)はこの詩を次のように解釈する(献曝は意味不明とする)。「軍装に参謀飾緒を佩用した上野参謀の姿は中国(上国)の高官が冠から珠玉を垂れ下げているようだ。民衆は曝を献じて?殆どが皮衣を着ている。参謀は優れた人材で非凡な人だ。その才能や知恵は第一流だ。復興に当たって市の願いは(軍の期待も)民より先に憂い、成果を見て、衆に遅れて満足することであった。江南地帯の社寺は、新南昌の建設に続いて日本、さらにアジアの隆昌を祈っている」上野君は「この詩は力作で、リズム感もあり対句もあり、特に結末の句はスケールが大きい素敵である」と評している。

 所感として次のように記す。「南昌は首都南京から190qしか離れていない。もしも南京大虐殺が実際に発生していたならば遅くとも1,2年後にはその情報が南昌にも届いたはずである。しかし手元の資料では軍政担当の師団と、市政府や市民との間に穏やかな雰囲気が感じられる。当時の国民政府軍や共産軍の軍紀は厳正とはいえず、特に敗退時の乱れはひどかったようだから日本軍の規律の良さが市民に歓迎されたのではなかろうか」

 南京事件は虚構にもかかわらず、しばしば物議を起こす。最近もあった。名古屋市の河村たかし市長の『南京事件というのはなかったのではないか』との発言に中国側が反発、南京市政府は両市間の交流を一時停止すると発表した。河村名古屋市長が正しいことを言っている。当時南京の守兵が5万ないし10万しかいなかった。市民を入れも20万人足らずの南京で30万を超える虐殺がおこなわれるはずがない。明らかに中国側のでっち上げである。この事実を日本人ははっきりと認識すべきである。ドイツの週刊誌「シュピーゲル」(44号1997年)が15年も前に『虐殺30万という日本の戦争犯罪は、中国にとって道徳的武器になっている。しかし南京はアウシュビッツとは違うのに、中国がこの数字を握りしめて離さないのは文化大革命で毛沢東主義者が自国民にやってのけた『大量虐殺』から目をそらせる効果をねらってのことだろう」と論じたことがある。

 「南京虐殺に動かしがたい証拠がある」と中国側が言うが、そんな証拠は一切ない。中国側がこの数字を握りしめてはなさいのは何か魂胆があるからであろう。ともあれ、萬煕氏の詩を味わってほしい。




(柳 路夫)