2012年(平成24年3月1日号

No.531

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安全地帯(351)

市ヶ谷 一郎(鎌倉在住)


源 頼朝の墓


 一昨年3月10日(戦前の陸軍記念日)に鎌倉鶴岡八幡宮のご神木の大銀杏がたいした風でもないのに、倒れた。中は空洞になっていて約千年の寿命であった。

 今度は、本年2月11日(建国記念の日)始めての武家政権、鎌倉幕府を創立した源 頼朝の墓地(市内西御門)が荒らされた。午後0時45分ごろ参拝客よりの通報に警察官が駆けつけると高さ約2bの石塔の頼朝の墓は層塔でその上部の「相輪」が地面に落下、近くの石灯ろうも破損、下の白幡神社の狛犬2体も台座から落とされ割られていた。署員の捜索により、鶴岡八幡宮内で目撃情報に似た不審な男を尋問したところ、包丁を所持していたため、銃刀法違反で大和市の46才の男を現行犯逮捕し、容疑者として調べているが、目撃者によると損壊犯人はどうもその男らしい。。理由はなんであれ、墓を壊すとはとんだ罰あたり狂気の沙汰である。破損個所は、今後、市は県や文化庁、専門家とで検討して修復する方針で、修復が可能であったのは不幸中の幸いであった。

 鎌倉はご承知のように、「武家の古都・鎌倉」として世界文化遺産へ登録するための推薦書(正式版)が1月末に国からユネスコ世界遺産センターへ提出された。市の広報によれば今年夏ごろイコモス(国際記念物遺跡会議)の現地調査があり、来年6月ごろ開催されるユネスコ世界遺産委員会で登録の可否が審査されることになっている。

 頼朝の墓もその目玉の一つであるが、実際の墓は、もう少し西寄りにあった法華堂跡で、多少の遺物も発掘されている。今でも頼朝の墓と言わず法華堂跡と称されている。従って、壊された七層の石を積んだ層塔は、始めは勝長寿院(頼朝が父義朝のため建立)より持ってきたらしいが、何回も地震などで倒壊したり、修復たりして現在は異なっている、つまり、参詣者用のものなのである。当時、身分の高い人は法華堂というお堂で囲んでお墓を建て供養したという。鎌倉に現存しているのは、梅の咲く緋毛氈の縁台でお抹茶をいただく円覚寺仏日庵の建物が大国の元を迎え撃った北条時宗・夫人覚山尼・嫡男貞時の法華堂である。

 また、平成17年現在の頼朝墓の東約80bのところの平場に「吾妻鏡」に記載されたどおりの執権北条義時(政子の弟)の法華堂跡と思われる8.4bの正方形の建物跡が遺物と一緒に発掘されている。

 頼朝は建久10(正治元・1199)年1月13日52才で死去、なぜかこの大事件を北条氏編纂といわれる「吾妻鏡」が前3年間欠落し、当日にも記載がなく、2か月後、亡くなったことが書かれているだけで死因も諸説憶測され、謎であるのはたいへん興味がある。ちなみに、小生の誕生日は、1月14日、まさに頼朝の生まれ変わりか?

 頼朝の法華堂にまつわる話として、相模三浦氏と5代執権北条 時頼(時宗の父)との抗争で相模三浦一族が敗れ、最後にこの法華堂へ集まり三浦 泰村以下276人ほか郎党とで500人が右大将頼朝の墓前で壮絶な自刃をしたところである。なかにも、すごいのは泰村の弟光村は敵に死体が判るのを嫌い、自ら顔の皮を剥いだ後、切り刻んだといわれる。これはその時、法華堂の天井に隠れていた僧侶の目撃で、本当らしい。名族三浦一族の墓所は頼朝墓の東方の義時法華堂跡の上方にある。

 島津家の言い伝えで真否のほどは判らないが、自称、始祖の薩摩藩主島津 忠久は頼朝のご落胤ということになっていて、壊された現在の頼朝の墓石は、安永8(1779)年子孫の島津 重豪(しげひで)が建てた層塔で、台座に島津家の紋章○に十の紋が入っている。また、忠久の墓も近くにある。

 隣には、平治の乱で配流されていた土佐の介良荘より兄に呼応し、旗揚げしたが、不運にも敗死した、頼朝と母を同じくする弟希義(まれよし)の墓の土が高知の有志のご好意で置かれている。 

 「地獄行き梅散る墓に罰あたり」
    
 頼朝墓の右、弟希義の墓の土

『歴史は長き七百年(今は八百年) 興亡すべて夢に似て 英雄墓は苔むしぬ』(鎌倉唱歌)