花ある風景(447)
並木 徹
何処やら鶴(たづ)の声きく霞かな
漂泊の俳人井上井月を描いた北村皆雄監督・映画「伊那の井月・ほかいびと」を見る(2月27日・日本記者クラブの試写会)。私の好きな俳人種田山頭火も昭和15年3月58歳の時、「伊那で畏敬する江戸末期の俳人井上井月」の墓参をしているので興味を持った。さらに芭蕉も敬愛している。しかも芭蕉忌(10月12日)に「我道の神とも拝め翁の日」という句を残す。
井月は伊那には33歳の時、伊那へふらりとやってきた。1858年(安政5年)ごろである。13代将軍家定、14代家茂の時代で、安政の大獄、桜田門外の変が起こり、世情騒然としていた。世を捨てた井月が幕末から明治にかけて伊那谷をさ迷うこと30年。「一所不在」・「無所有」を貫いた。明治20年2月16日、66歳でこの地で亡くなった。
「よきお酒のある噂なり冬の梅」
酒を求めてあちらの家、こちらの家を訪ねて「千両,千両」ととなえた。このような人を「ほかいびと」と言う。乞食者である。万葉集にも「乞食者(ほかいびと)の詠二首出ている(3885,3886)。
「山里や雪間をいそぐ菜の青み」
「雪車(そり)に乗りしこともありしを粽」
長岡藩の武士であったとわれる。伊那谷に現れた時には木刀を持っていたという。村の有力者や弟子たちは何度も郷里長岡に返そうとしたがその都度、途中から伊那谷に戻っている。長岡へ帰郷の句会で読んだ句がある。
「草木のみ吹くにあらず秋の風」
故郷に帰りたくない井月の気持ちがにじみ出ているように思える。
「かえられぬ死にそこねたる不忠者」
戊新戦争の時、薩長軍と戦い破れた長岡藩を去った理由について井月は聞かれても一切答えなかった。明治も時代が進むごとに伊那谷も無籍者には次第に住みづらくなる。富国強兵の名の元に百姓は重税を強い得られ、明治17年には秩父事件が起きる。伊那谷にも政府を批判する資料が残される。映画には伊那谷の美しい風景とともに伝統行事である「やっちょろ踊り」や「さんよりこより」が出てきて観客の目を楽しませてくれる。
山頭火は「苦痛は抱きしめて始めて融けるものである」と言ったが「もりもりあがる雲へ歩む」と辞世の句を読んだ山頭火に比べると、井月の辞世の句、「何処やら鶴(たづ)の声きく霞かな」を読む限り、心の痛手は救済されていない。北村監督は「今の時代に必要なのは、人の絆の再構築、共同体の再構築ではないか」と訴える。伊那の有力者たちと別れの宴に詠んだ「秋風の句」は石を投げつけ罵った子供たちがいる村、「留守ですか」と声を懸けても無言で戸を閉めた村人がいる部落への悲しい嘆きの歌であったのだろうか。と言うより私にはあきらめに近い歌に感じるのだが・・・。最後は塩原梅関の世話になり、塩原清助と名乗り幣屋にすむ。
「落栗の座を定むる窪溜まり」
と詠んだ井月だが、のたれ死と言ってよい。漂泊の俳人に相応しい。
「この旅、果てもないつくつくぼうし」(山頭火)
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