2012年(平成24年)1月20日号

No.527

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茶説

山本五十六大将と大東亜戦争

 

 牧念人 悠々

 映画「山本五十六」を見る(1月11日・新宿「バトル9」)。山本海軍大将(役所宏司)とのかかわり方を言えば昭和18年5月22日、陸軍予科士官学校在学中の17歳の時であった。新聞で「山本連合艦隊司令長官西南太平洋上空において戦死(4月18日)を遂げられたり」と知った。その3日前、大講堂で講演した大本営陸軍部報道部長、谷萩那華雄少将(陸士29期)が「前途楽観を許さない」と話をされたのが現実となったと痛感した。この日、山本長官は幕僚とともに1式陸上攻撃機2機に分乗,ニューブリテン島ラバル基地を出発する。護衛機はわずか6機。待ち伏せていた米軍のP38戦闘機16機に襲われ機上で戦死した。時に59歳であった。長官の前線視察はアメリカの諜報部の無線で4月13日にすべて傍受されていた。映画に出てこない話だが諜報部長エドウイン・レイトン中佐は日本に留学中、山本長官と会っている。昭和12年の冬、アメリカ、イギリス、オランダ、日本の海軍士官が帝室御猟場に招待された時、レイトン中佐はホスト役の山本長官にブリッジを挑んで負けている。報告を受けたニミッツ提督の部屋からは日本海軍の奇襲を受けて沈没した戦艦アリゾナの艦橋が一望できたという(大野芳著「山本五十六自決セリ」・新潮社刊)。このようなシーンを映画に挿入出来れば映画に厚みをましたであろうと惜しまれる。

 山本長官が海軍次官の時代、若い記者、真藤利一(玉木宏)に「目も耳も心も大きく開いて世界を見なさい。それが次の世代を担うものの務めだと思うかな」と諭す。山本長官には新聞記者の知己が少なくない。海軍担当20数年と言う読売新聞の内田栄記者は「山本君がね・・・」とよく話をした。長官も君呼ばわりである。長官を中尉時代からの友達であるから無理もない。米内光政海軍大臣から開戦日を聞きこんできた毎日新聞政治部記者、後藤基治さんも内田長老のお世話になり、海軍の名だたる将軍をひきまわし紹介されたという。日独伊三国同盟は米英を敵国に回し戦争になると反対する米内光政海軍大臣(柄本明)、山本海軍次官にインタビューしてもなお開戦を煽る新聞社の主幹宗像景清(香川照之)、敗戦後はたちまち変節して民主主義を説く。大勢順応型の日本人そのままである。だがこれは一面でしかない。毎日新聞西部本社の昭和20年8月15日の紙面は違っていた。第一面の最終段の半分まで重要記事で埋まっていたが第二面は白紙のまま発行された。16日付も第一面は10段が記事(1ページは16段)で、その他は第二面も白紙のままであった。17日も第二面が白紙となり裏面の記事がない日が三日続いた。こうした状態が15日から5日間も続いた。高杉孝二郎編集局長は『その日まで戦争を謳歌し扇動した新聞の責任、これは最大の形式で国民に謝罪しなければならない。本社は解散し、毎日新聞は廃刊、それが不可ならば重役ならびに最高責任者は即事退陣せよ』と提案、辞表を出した(毎日新聞百年史)。このような出来事もあったと映画フアンも知ってほしい。

 山本長官の真意は開戦反対である。海兵32期の同期生・掘悌吉中将(坂東三津五郎)との会話の中でもよくそのことが理解できる。「できるだけ戦争は避けたい。海軍の持続力は1年半ないし2年である」と言っていた。山本長官から最も信頼され海軍兵学校の校長になった井上成美大将(柳葉敏郎・海兵37期)の次の言葉が鮮烈である。「実戦部隊の最高責任者である連合艦隊司令長官が、対米作戦に自信がないと言うのであれば、職を賭して反対すべきであったと思う。国家が滅ぶかどうかの最大問題だ。滅私奉公こそこのときだ。私はかねがね山本さんに全幅の信頼を寄せているが、この一点だけは同意することが出来ない。山本さんのために惜しむ」(児島襄著『指揮官』上文春文庫)。

 山本大将は昭和14年8月30日から昭和18年4月18日まで3年8ヶ月連合艦隊司令長官を務められた。しかも世界最強を誇る米英海軍を相手に一時期互角に戦い勝利を得た。過去に連合艦隊司令長官で戦死されたのは山本大将だけである。日露戦争の東郷平八郎元帥に匹敵しうる人物であるのは間違いない。その勲功は語り継ぐべきである。