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小さな個人美術館の旅(54) 向井潤吉アトリエ館 星 瑠璃子(エッセイスト) よく晴れた初冬の昼下がり、東京世田谷にある向井潤吉アトリエ館を訪ねた。民家の画家として知られる向井がアトリエを兼ねた住まいを改装、作品五百数十点とともに世田谷区に寄贈して平成五年に開館した美術館である。 けやき、もみじ、柿、こなら、竹……、武蔵野のおもかげを残す庭を眺めながら小さな傾斜を上がってゆくと、木々が白壁に柔らかな影を落とすアトリエ館は、向井が描き続けた民家にも似た慎ましやかなたたずまい。いまにも画家その人がひょっこり姿を現しそうな雰囲気に満ちていた。
靴を脱いで上がると、はじめの部屋がアトリエだったところで、イーゼルやら絵具箱やらが何とも自然な形に置かれている。壁面には自画像。「厚いマチエールで底しれぬ希望をつつみこんでいるような」と米倉守が言った「ちょっと神秘的な」十八歳の顔だ。人の手を回り回って手元に戻ってきたのを画家はアトリエにかけていたというから、美術館となったいまもそのままの姿をとどめているのだろう。部屋の角にあたるところには清々しく和室がしつらえられ、ここは接客用に使ったものという。南側は大きく開いて庭に面し、制作の合間に一息入れたであろう椅子には、美術館を訪れた人がひっそりと坐って木もれ日のあたる寒椿を眺めていた。 その部屋の隣りは岩手県一関で見つけて移築、改装してこれもアトリエに使ったという土蔵の陳列室で、一階、二階に、あったあった、あの懐かしい民家が惜しげもなくふんだんに並んでいた。年に四回、テーマによって掛け変えるというシリーズ展示の今回は「民家、生命(いのち)に満ちた風景」とある。湿り気を帯びたやわらかな空の色、雲のかたち、木々をわたる微かな風のそよぎまで聞こえてくるような、それはただ「民家」というよりは確かに「民家のある風景」だ。日本の風景を油彩でどう捉えるか、五十年の歳月をかけて画家が問うた成果が紛れもなくここにあった。 向井潤吉は1901年(明治34)の京都生まれだ。父も母方の祖父も宮大工で、父の最後の作品は修復中の東大寺大仏殿の鴟尾(しび)というから相当な腕前だったのだろうが、潤吉が物心ついた頃には輸出向けの刺繍屏風や衝立の製造に携わっていた。 油絵が描きたくてたまらない潤吉は父の反対を押し切って京都市立美術工芸学校を中退して関西美術院に入学。さらに十八歳で二科展に初入選するや父に無断で上京し、新聞配達をしながら川端画学校に通った。二十六歳の時、渡欧。ルーブル美術館に模写の許可を受けて午前中はまるで修行僧のようにひたすらレンブラントやミレーなど古典の模写に費やし、午後は下宿で想念の赴くままにフオービックな自由制作。夜はアカデミー・ド・ラ・ショミエールでデッサンを学ぶというのが日課だった。三年後に帰国して模写名作展、クロッキー展を開催しているが、こんな短期間に二十一点もの模写をして帰った画家は後にも先にも向井の他にはいなかったという。結局、この時に学んだ技術が後の民家へと結集してゆくのだろうか。 1945年、向井は愛娘の集団疎開先の新潟県川口村で「雨」を制作した。敗戦の傷心のなかで、戦禍をまぬがれた農村の素朴な風景のなかに見出した束の間の安らぎだったが、これが民家シリーズの第一号となった。その後、せきを切ったように草屋根の民家を描き始める。抽象やアンフオルメルなど前衛全盛の時代に一人背を向け、自らを「後衛」と称し、失われゆく民家を求めて北海道から九州までを彷徨い、描くのである。 二千点を越えるというその民家作品の中から、いまここには六百五十点ほどが収蔵され、油彩を中心に、アトリエ二階の水彩を含めて毎回四、五十点が展示されている。今日は休日のせいか、来館者がとても多い。一人で、あるいは幾人かで連れ立ってやってくる人はやはり年配の人が多く、失われてしまった日本の風景を惜しむようにそこここに言葉少なに佇んでいる。私もその一人だったのだが、帰って読んだ向井の言葉が何よりも印象的で、グサリと心につきささったのは皮肉だった。日本の民家ばかりを描きつづけ、ヨーロッパの石造りの家に改めて取り組んでみようと1950年から翌年にかけて三十年ぶりに再渡欧し、しかし出掛けてみると石造りの家がさっぱりピンと来なかった向井の、その時の言葉である。
「結局、私はいつの間にか、日本の風土の、もの柔らかな空気のなかに受け継がれた、木質の脆さを代表した民家を描くことに、知らず知らず貧しい技術を合わせていたのに気づいたのである」 その折に描いた油絵九十点とスケッチは、帰国の翌年、発表を待たずにアトリエの失火によってほとんどが焼失してしまい、較べてみることはできないけれど、その後の向井は亡くなるまでの三十三年間を再び日本の民家を求めて「丹念に、執拗に」未知の農村漁村を遍歴し、美術館開館から三年後、九十四歳の誕生日を目前に急逝したのである。
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