2011年(平成23年)10月20日号

No.518

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花ある風景(434)

 

並木 徹

 

 百草園に遊ぶ
 

 秋の一日,日野市の百草園に遊ぶ(10月11日)。京王線の府中駅から百草駅まで8分。駅から百草園まで坂を登ること15分。この坂はいささかしんどい。ここを訪ねるは府中に在住して56年になるもわずか3度目。入園料300円。祝日の翌日とあって園内は人影がまばらであった。

 正門すぐ右手に若牧水生誕百周年記念碑がある(牧水が生まれたのは明治18年8月24日)。両側にツゲが植えられた所に立つ歌碑には「小鳥よりさらに身かろくかなしく春の木の間ゆく君」とあった。歌碑の建設は昭和60年11月吉日、すでに26年も立つ。この歌は長男の旅人が選び揮毫。碑文の文字は風雪にさらされて読みにくい。牧水は明治42年6月19日から7月15日まで百草山に滞在,第二歌集『独り歌える』(明治43年1月発行)の編集をする。牧水が早稲田の英文科を出たのが明治41年7月、同じ月に第一歌集『海の声』を自費出版するが売れなかった。一時、中央新聞社の社会部記者を5ヶ月間勤める。詩人は新聞記者には向かない。牧水の歌碑はそば処『松連庵』の左側にもあった。

 「山の雨しばしば軒の椎の樹にふり来てながき夜の灯かな」
 「摘みては捨て摘みては捨てし野のはなの我等があとにとほく続きぬ」
 「拾ひつるうす赤らみし梅の実に木の間ゆきつつ歯をあてにけり」
                      (昭和46年11月、日野観光協会)
 ここは享保年間(1716年から1732年)に建てられた松連寺の庭園であった。梅の名所で、50種類500本の梅が春には咲き誇る。今は「花カレンダー」にはホトギス、吉祥草とある。

 歌集『独り歌える』の自序には『人生は旅である。我等は忽然として無窮より生まれ、忽然として無窮のおくに往ってしまう。その間の一歩一歩の歩みは実にその時のみの一歩一歩で、一度往いて再びかえらない。私は私の歌を以て私の旅のその一歩一歩のひびきであると思ひなしている。言い換えれば私の歌はその時々の私の生命の砕片である』とある。

 それにしても有名な『幾山河越え去りゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく』が23歳の作とは信じがたい。

 牧水には好きだったという武蔵野を歌った歌がある。
 『武蔵野は落ち葉の声に明け暮れぬ雲を帯びたる日はそらを行く』
 『武蔵野の岡の木の間に見なれつる富士の白きをけふ海に見る』

 一時間ほど園内を逍遥。この間、野鳥の声も聞こえず「キンモクセイ」の香りもかかなかった。若山牧水もここを訪れたというから、もっぱら牧水の歌の世界に埋没する。

 金木犀幾年へしぞ歌碑悲し 悠々