2011年(平成23年)9月20日号

No.515

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(430)

「市谷台慰霊祭」開催される


 自衛隊市ヶ谷駐屯地メモリアルゾーンで開かられた公益法人「偕行社」主催の「市谷台慰霊祭」に初めて出席した(9月14日)。この地には敗戦時にその責任をとって自決された阿南惟幾陸相(陸士18期。)杉山元第一総軍司令官(陸士12期・元帥)第一総軍付吉本貞一大将(陸士20期)大本営作戦参謀、晴気誠少佐(陸士46期)らの碑、陸軍全航空部隊戦没者慰霊碑などがある。さらに自衛隊の殉職者慰霊碑もある。自衛隊発足以来殉職者は1800人に及ぶ。

 戦前市ヶ谷には陸軍士官学校があった。明治8年から昭和12年9月本科(在校生陸士50期)が神奈川県座間に移り、昭和16年9月予科(在校生57期)が埼玉県朝霞に移るまで軍の国幹を養成した。戦時中は陸軍省が使っていた。敗戦後陸軍省の大講堂が東京裁判の法廷となった。今は防衛省が入り、自衛隊の駐屯地となっている。昔の面影はないと先輩期の人はいう。確かに「陸軍士官学校の碑」はあった。

 慰霊祭には祭主の志摩篤偕行社理事長、君塚栄治陸上幕僚長、遺族・阿南惟正さんら140人が参列、碑前で焼香、ご冥福を祈るとともに慰霊の顕彰と国防への決意を誓った。

 阿南大将は昭和20年8月15日未明、陸相官邸で『一死を以て大罪を謝し奉る』と全陸軍を代表して短刀で自決された。時に59歳であった。徳将と言われた。「判断に迷ったら徳義を取れ」と説いた。

 杉山元帥がピストで自決されたのは昭和20年9月12日である。時に66歳。天皇陛下へ「お詫び言上書」を残す。日付は8月15日であった。敗戦時にすでに覚悟を決められていた。夫人啓子さんも自宅で夫の自決を知るや、短刀で心臓をついて自決された。享年57歳。杉山元帥は陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官を歴任している。このような経歴は上原勇作元帥(士官生徒3期)しかいない。「グズ元」とあだ名がある。昇進は常に同期生のトップであった。細心、緻密、几帳面であったといわれる。

 最後は東部における本土決戦担当の第一総軍司令官であった。西部担当は同期生の畑俊六元帥(昭和37年5月死去・享年84歳)であった。

 晴気少佐は太平洋正面作戦の作戦参謀であった。サイパン(昭和19年6月守備隊玉砕)・グアム(同年9月守備隊玉砕)の失陥に深く責任を感じていた。敗戦になるや市ヶ谷台上で割腹自決した。時に33歳であった。

 ドイツではニュルンベルグ裁判のあとナチ追及を始めた。日本では戦犯の追及はなかったという識者がいる。ここに一つの結論が出ている。軍人たちは敗戦の責任をとり自裁した。

 戦後多くの軍人がそれぞれの場所で自決した。その数は知れない。もののふは人に後ろ指さされるのを恥とする。だから自らを裁いたのである。この日、残暑はことのほか厳しかった。


(柳 路夫)