毎日新聞社会部時代の友人高橋久勝君が亡くなった(5月14日・享年86歳)。毎日新聞が昭和23年6月に復活した「警察廻り記者」10人のうち私一人が生き残った。あれから63年もたつのだからやむを得まい。それにしても淋しい。体を一陣の風が吹き抜けてゆく。
高橋君は生前自分の死亡記事を書く(平成18年6月)。それによると、102歳まで生きるつもりであった。16年も早い。昨年8月頃からガンに冒され入退院を繰り返していた。「棺は50年前の毎日新聞社旗で覆われ、往年の事件記者を送るにふさわしいものであった」と記す。彼は事件記者であった。頭角を現したのは入社早々の「下山事件」(昭和23年7月)であった。当時、毎日は自殺説、朝日、読売は他殺説であった。この時、察廻りは全員事件取材にかり出された。警視庁が自殺説の根拠としたのは常磐線で轢断死体となって発見された下山定則国鉄総裁が死の直前、現場近くの旅館に一人で休憩した事実であった。それを特ダネにしたのが高橋君であった。これは戦後の事件史に残る。下山事件は今なお『他殺』を唱える俗説が流布するがこれは真実ではない。
夫人和子さんと結婚したのは昭和30年5月26日。56年目の結婚記念日を祝うはずであった。夫人の話では国分寺の親戚の家で開かれた結婚式に私も友人代表で出席したと写真まで見せられた。私には記憶がない。社会部で集めたお祝い金を高橋君にわたすのだが本当に結婚するのか確認するための出席であったという。長女・長男に恵まれ、支局次長は青森、横浜、支局長は新潟、千葉とやり、支局員に好かれ、家族ともどものつきあいであった。最後は調査部長であった。長男は新聞記者を志望、今は産経新聞の整理部記者である。私の息子は家庭を顧みず働く私を見て大学は工学部を出て“堅い仕事”に就いた。
彼は海軍予備学生第13期生である(昭和18年9月13日土浦海軍航空隊に入隊)。私は昭和18年4月、埼玉県朝霞にあった陸軍予科士官学校に入校した。9月13日の乃木祭の日、59期生の同期生大会を開いた。彼は終戦時、艦爆乗りの海軍中尉であった。攻撃第3飛行隊付で特攻要員として愛知県挙母基地にいた。私は富士山麓で卒業前の最後の野営演習に励んでいた。終戦の詔勅を野営地で聞いた。位は軍曹であった。陸と海の違いがあっても気心は常に通い合っていたと思う。
高橋君は生前の死亡記事3句の辞世の句を残す。
冥途ゆく吾を肴に古酒を酌め
散華せし戦友の待ちゐる黄泉路かな
天地はこの世かの世のわがすみか