花ある風景(420)
相模 治郎
万葉集 雑感
中西進編『万葉集の言葉と心』(昭和50年4月毎日新聞社発行)を読む。著者は大岡信、大野晋、尾崎喜左雄、金思Y、鈴木竹樹、土橋寛、永井路子、中西進、水島義治の9人、1900年から昭和一桁生まれの錚々たる国文学者、詩人、歴史小説家を集めた異色の企画である。本稿では永井路子と大岡信の著作から私なりの感想を纏めてみた。
永井路子は、「戦時中、『万葉集』は“ますらをぶり”の歌だと教えられた」と回顧しているが、同世代に育った私も同感である。 賀茂真淵が、男性的でおおらかな歌風を万葉集に見いだして“ますらをぶり”と言ったのが始りだそうで、古今集以降の“たおやめぶり”と対になっている。
20-4373* 今日よりはかへり見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは
作者 火長* 今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)
*兵士10人の長
しかし、と永井は続ける。「万葉集はふしぎな歌集である」 例えば「この歌集に出てくる多くの作者たちの経歴を洗ってゆくと意外なくらい、政治的な事件にまきこまれて、非業の最後をとげた人が多い」 後で触れるが万葉集を編纂したといわれる大伴家持も国事犯であった。
大岡信は、「万葉集には柿本人麻呂の歌のように荘重で胸を打たれる歌があるが、巻十六などには笑いを誘うナンセンスな歌があっておもしろい。」と指摘している。
@手元の史料から当時の国事犯の例を調べてみた。万葉集には作者の忌まわしい経歴の記述はない。
○有馬皇子(2-141・142)
第36代孝徳天皇の皇子。654年孝徳天皇崩御の後、皇子若年の為、伯母の皇極女帝が斉明女帝として重祚された。658年、女帝の有力後継者と目さていた有馬皇子が、蘇我馬子の孫・蘇我赤兄の謀略にかかって謀反を誘発し、処刑された。
○大津皇子(2-107・108、3-416、8-1513)
第40代天武天皇の皇子。異母兄の草壁皇子に継ぐ皇位継承者であったが、686年天武天皇崩御後、殯宮での行為を咎められ、草壁に対する謀反の罪で死罪。二上山に葬られた。
○長屋王(1-81・82・83、3-245・246・248)
729年、天武天皇の孫。第45代聖武天皇の御世、左大臣の最高職にあったが、藤原不比等派の謀略で謀反の嫌疑をかけられ、自殺、後を追った妻と共に生駒山に葬られた。
○藤原広嗣(8-1456)
藤原不比等の孫。 聖武天皇の740年右大臣橘諸兄と対立した広嗣は側近の吉備真備と玄ム排除の上奏文を提出して任地の大宰府で挙兵したが失敗。誅殺。
○橘奈良麻呂(6-1010,8-1581・1582)
父は橘諸兄、母は藤原不比等の娘。聖武天皇の皇女・第46代孝謙女帝の757年、女帝の生母・光明皇太后の庇護の下に権勢を強める藤原仲麻呂の排斥計画が露見し誅殺された。処刑者443人、反藤原勢力が一掃され、仲麻呂の独裁的権力が確立した。
○藤原仲麻呂(恵美押勝)(19-4242・20-4487)
光明皇太后死後、道鏡を寵愛する孝謙太上女帝と仲麻呂が擁立した第47代淳仁天皇の関係が険悪化し、762年太上女帝が国家大事・賞罰二権の掌握を宣言するに至って、対立は決定的になった。764年武力衝突して敗戦、斬殺された。淳仁天皇は淡路に幽閉、廃帝。太上女帝が第48代称徳女帝として重祚。
○大伴家持(3-403、他約480首)
延暦4年(785年)9月23日夜、桓武天皇の信任が非常に厚かった藤原種継が長岡遷都の造宮監督中に暗殺されるという事件があった。家持は事件直前の8月28日に死亡しているが、事件に関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に配流となった。
A防人の歌
防人とは、大化の改新後、唐、新羅の連合軍と戦って敗れて以来、北九州、対馬、壱岐の防備のために配された国境警備兵である。三年で交代し、任期中は自ら耕して自給生活を送った。万葉集巻二十には、兵部少輔の職にあった大伴家持が東国から防人の兵士を徴発し、難波津から筑紫に向かって船出させる任にあたっていて自ら命じて集めさせた八十数首の防人の歌が入っている。
前掲の防人の歌20-4373のような“ますらをぶり”の歌よりも残された家人を思う切々たる心情を詠んだものが多い。
注書には沢山の歌の中から選歌したことが記載されている。
右一首火長今奉部与曽布 (二月十四日下野國防人部領使正六位
上田口朝臣大戸進歌數十八首 但拙劣歌者不取載)
これは前掲20-4373の歌に書き添えられた注書であるが、下野国の防人徴兵官が防人から集めた歌の中から選者(恐らく家持)が拙劣なものを除いた18首を選んで載せたとしている。
家持自身も防人の心情をいくつか歌にしている。
20-4332 丈夫の靭取り負ひて出でで往けば別を惜しみ嘆きけむ妻
20-4333 鶏が鳴く東壮士の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み
永井路子は庶民の目線で歌を詠んだ代表歌人として山上憶良を挙げている。有名な
『貧窮問答の歌5−892』の作者であるが、今で言えば、福岡県知事相当の高級官僚で貧乏人ではない。彼は702年から704年遣唐使の一員として唐を訪れている。則天武后の時代である。永井によれば、当時彼の地では官吏の間で世を嘆き、憂える風潮があって詩文にも反映されていたので、彼は中国文学の影響を日本に持ち帰ったのではないかと推理している。当時の唐の詩文を探したが見付らないので時代は若干あとになるが、800年頃、白居易や韓愈と親しかった張籍が、重税、兵乱で苦しむ民を描く詩人として知られているので、漢詩の一つを邦訳したのを紹介する。
野老の歌
じいさんは貧乏で山に住み
三、四畝ばかりの段々畑をお耕している
苗は少ないのに税金は重くて食べてゆけない
お上の倉庫に納めたのはくさって土になっていると言うのに
としの暮れにからっぽの部屋にあるのはくわとすきだけ
子供をよび山に登ってとちの実ひろい
西江の商人は真珠を百斛ももち
船の中で飼っている犬にいつも肉をたべさせている
Bコミカル、ナンセンスな歌
大岡は云う「ナンセンスな歌はたった一人では歌えない。ナンセンスな事を云って人を笑わせることに目標があるので、一人の作者ではなくて、集団があるということだ。落語家の職業が成り立つのもナンセンスなばかばかしい話しを聞いて面白いといってくれる人たちがいるからだ。」「信頼関係にある集団にはそこには必ず笑いがある。万葉集にはそういう詩があるということは非常に大切なことで無視できない分野である。」
小学生の頃、数人の仲間で、ナンセンスな言葉遊びをしたことを思い出した。
○ナンセンスな歌
天武天皇の子、舎人親王(日本書紀編纂)が取り巻きの人々に2000文の賞金をして「由る所なき歌(ナンセンス、ばかばかしい歌)」を募った結果二人が入選した。
16−3838 我妹子(わぎもこ)が額に生ふる双六の特負(ことひ)の牛の鞍の上の瘡(かさ)
(恋人のおでこに牡牛の形をした双六が生えている。牛の背中の鞍の上に瘡蓋が乗っている)
16−3839 我が背子が犢鼻(たふさき)にするつぶれ石の吉野の山に氷魚(ひを)ぞ懸有(さがれる)
(私のいとしい背の君が褌になさる丸石のころがっている吉野山に、鮎だろうか小魚がぶら下がっている)
○コミカルな歌
16−3828 香塗れる塔にな寄りそ川隅の屎鮒(くそぶな)喫(は)める痛き女奴(めやっこ) (作者 長意吉麻呂)
16−3832 枳(からたち)の棘原(うばら)刈り除(そ)け倉立てむ屎(くそ)遠くまれ櫛造る刀自(とじ) (作者 忌部首)
16−3858 此の頃のわが恋力記し集め功申さば五位の冠
16−3859 此の頃のわが恋力給らずは京兆に出でて訴えむ
巻十四にもこんな歌があった。
14−3483 昼解けば 解けなへ紐の 我が背なに 相寄るとかも 夜解けやすけ
結語
たしかに万葉集は“ふしぎな歌集で”ある。 天皇から庶民、国事犯まであらゆる階層の歌が入っていて、題材も荘重、優雅なものから恋心を交し合う相聞歌や、コミカル、ナンセンスなものと多岐多彩である。 現代に置き換えれば御製の隣に極東裁判A級戦犯の歌が載っているような歌集である。