2011年(平成23年)5月20日号

No.504

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追悼録(418)

船村徹の兄福田健一少佐のこと


 作曲家・船村徹さんの兄は陸士53期生の福田健一少佐である。昭和19年2月16日、西部ニューギニアにある連隊主力に加わるためマニラから輸送船「長城丸」に乗船、ミンダナオ島沖で敵潜水艦の攻撃を受け部下855名とともに戦死された。時に23歳であった。

 船村徹さんの講演を聞く機会があった(5月10日・市谷・「アルカデイア市ヶ谷」)。兄健一少佐は12歳年上で、秀才の誉れ高く、4年生から陸士に合格した。兵科は電信兵。陸軍科学校在学中(昭和17年10月20日入校、翌年4月4日卒業)、父親が亡くなり、葬儀に出席のため帰郷した際、夜遅く船村さんの寝床に入ってきて「ハーモニカを吹いてやろう」と言って「ドリゴのセレナーデ」を繰り返して吹いてくれたという。そして「いいか博郎(船村さんの本名)、よく聞け。お前は絶対に軍人になるな。死ぬのはおれだけでよい。お前は軍人になるんじゃないぞ。わかっただろう。約束だよ」と言った。日本が負けるのがと分かっていたのでしょう。自分の死期が近いことをも悟っていたのでしょう。『長城丸』が出港の際、多くの部下を「体調が悪るそうだ」とか「病気だ」と言うことで強制的に下船させた。そう言われた部下たちは兄を恨んだ。戦線を離脱することは軍人にとって恥だったからだ。後年船村さんが長城丸に乗り組んでいた人々を訪ね歩いた時、信州のある家に行くと床の間に兄の遺影が飾ってあった。奥さんともに迎えてくれたその人は、兄に強制的に下船された人で、あの時は兄を冷たい人だと思ったが戦後になって初めて兄の気持ちがわかった。兄を神様と言っていたという。

 53期生は、在学中の7月支那事変が起こり、8月に800名を増加採用した異例の期である。大東亜戦争開戦時の職は中隊長であった。私たち59期生の区隊長は53期生が主力であった。終戦時は大隊長であった。戦没者は地上兵科402名、航空237名、合計639名で、卒業者の37・2%になる。

 船村さんの母は船村徹という作曲家を認めなかったが、島村千代子が歌った「東京だよおっ母さん」だけはほめてくれたそうだ。会場では弟子の天草次郎が船村徹さんが作曲した「南十字星の下で」と「北斗七星」を熱唱した。「南十字星の下で」の歌詞「形見に残る 青春の 余白も悲し 日記帳」には船村さんの兄への思いがこもっており、思わず熱いものが込み上げてきた。

(柳 路夫)