安全地帯(321)
−信濃 太郎−
おじいちゃんが話するよ
田中裕子編「おはなしてよおじいちゃんおはなししてよおばあちゃん」(グランまま社刊)は樹木希林さんなど有名人12人のインタビューをまとめた本である。それぞれの人の人柄がよく出て面白い。皆に同じ質問をする。1、いちばん幼かった頃のこと(質問14項目)2、家族のことで覚えていること(質問18項目3、友人・幼稚園・小学校のこと(質問12項目)4、いま。おじいちゃん、おばあちゃんにききたいこと(質問7項目)。質問項目は合計50。よく言えば細心、準備が行き届いている。悪く言えば慾張りである。私がこれらの質問を受けたらこう答えたい。
生まれは大阪、生まれた時、毛深かったので産婆さんが母親に「この子は情け深いから大事に育てなさい」と言ったという。母親には大事にされたよウに思う。3歳のころ職業軍人であった父親の転勤で台湾に行った。連隊の官舎は階段のある立派な建物であった。1歳上の兄が三輪車に乗っていてその階段から転げ落ち頭に怪我をしたのを記憶している。庭にはバナナの木があった。今で歌える歌は「江戸子守唄」。大きくなったら警察官になりたかった。野村胡堂の「銭形平次」の読みすぎである。中学生になって軍人を志した。男ばかり7人兄弟であったのにだれも父の後を継ぐ者がいなかった。
昭和8年父親は陸軍大尉であったが辞めて満州国・ハルピンにあったハルピン学院の生徒監になった。私が小学校2年生の時である。父は謹巌実直と言うよりは洒脱な人であった。母親は7人の子どもを産んでから映画を見ることを趣味とし映画舘通いをはじめた。そのうちに映画館の支配人に顔を覚えられ、映画館はフリーパスとなったほどであった。食べ物に好き嫌いはなかった。小学生の時、友人と一緒に畑でキュウリを盗んでかじってたべたのでおなかをこわしてしまった。この時母親から「ひとさまの物を盗んではいけません」とえらく叱られた。
幼稚園にはゆかなかった。冬はスケートを楽しみ夏は太陽島(ハルピンにあるスンガリーの中州)泳ぎに行った。小学校時代の国語の先生で熱心なかたで何となく好きになった。いじめられたこともなければいじめたこともない。中学校は父の仕事の都合で大連に移った。4年生の時、同級生が整列時にダラダラしていたので怒鳴ったことがある。それ以来“硬派”と誤解され、級長をさせられた。選ばれて弁論大会に出た。中学5年生の時、昼ご飯を昼前に食べたのがばれて担任の先生に怒られた。その怒り方が気に食わなかったので「これで先生との縁を切ります。いろいろお世話になりました」と言って寄宿舎に帰った。結局先生の方から「明日は出て来い」と電話があって事は収まった。おかげで陸軍予科士官学校(埼玉県朝霞)に合格できた。在学中に敗戦、軍人の道は閉ざされた。戦後新聞の道に進む。孫は3人。役に立たない愚痴を言わず、やせ我慢して、世のため人のために尽す人物になってほしい。今何が大事かと言えば「国を愛する」ことであると言いたい。
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