同期生で弁護士の鹿野琢見君がなくって1年がたつ(昨年10月23日死去・享年90歳)。座間の陸軍士官学校で同区隊であった。敗戦濃厚のころ、1週間ぶっ通しの夜間演習を耐え抜いた仲間である。戦後、新聞記者となった私は弁護士の道に進んだ鹿野君とは折にふれて会い、裁判に関する面白い記事を頂いた。竹久夢二の絵が好きで集めており自宅の敷地に美術館まで建てた事も知っていた。私は「物好きだな」ぐらいにしか思っていなかった。さる日、隣の区隊にいた小池俊夫君から鹿野さんの長女・服部聖子さんが日経新聞に書いた記事(10月13日)を渡された。「夢二に魅了された亡き父」と題した記事を読んで彼の夢二に寄せる思いの深さを初めて知った。
画家・高畠華宵の名前を知ったのは鹿野君の話からであった。記事によれば華宵が関西の老人施設にいるのを知って鹿野君が自宅で世話して亡くなるまで面倒を見たというから驚きである。そのようなことを彼は同期生に一度も口にしたことはなかった。小学校3年生の時、華宵が雑誌に描いた口絵を見て感動、大正から昭和にかけての挿絵の収拾挿絵文化の研究にのめり込むようになったという。今にして思う。鹿野君が華宵を語る時はいつになく真剣であった。
竹久夢二はもっとほれ込んでいたようである。新聞記事にもなった。鹿野君がデバートで開かれた古書展で夢二の手紙を買い取ったのがことの起こりであった。その宛名の東京都世田谷区に住む山田市蔵さん(当時77歳)を探し当て、そこに未発表の夢二の絵が二枚あるのを発見した。山田さんは元堺市議で、17歳の時、社会運動家・山本宣冶の紹介で夢二と知り合い夢二の熱狂的なフアンとなった。2枚の絵は大正11年6月夢二から送られてきたものであった。鹿野君と山田さんの二人は昭和53年10月4日、記者会見をして公表した。夢二は『夢二型の美人』で知られ『抒情の画家』ともいわれるが若い時は社会主義に傾倒する。長女の聖子さんは1905年(明治38年)に「平民新聞」(註・週刊・明治36年11月創刊、同年38年1月第64号で廃刊・部数約4千部)に掲載された夢二のコマ絵について書く。「着物姿の骸骨の傍らで妻らしき女性が顔をたもとで覆って泣いている。日露戦争への反戦のメッセージを込めた作品で戦争の不条理になく市民に心を寄せた。弱い立場の人々に目を向けた夢二に父は弁護士として心を動かされた」。鹿野君は夢二の思いやこまごました指示等をつづったノートを32冊も残しているという。今は亡き久保村信夫区隊長の前で不動の姿勢を取って「鹿野琢見であります」と律義に答えたあの鹿野君の意外な側面を垣間見る思いである。夢二は昭和9年9月1日長野県の富士見高原療養所で死んだ。享年50歳であった。彼が弥生美術館と共に自宅敷地に設けた竹久夢二美術館は今年11月で開館20周年を迎える。このように本業をこなしながら立派な文化活動をした同期生がいるのを誇りに思う。
(柳 路夫) |