安全地帯(302)
−信濃 太郎−
陸士・海兵はどのような生死に関する教育をしたのか
雑誌「正論」11月号に海兵75期の徳光良一さんと陸士59期の西村博さんが75歳になる五十嵐重五郎さんの質問「陸士・海兵ではどんな生死に関する勉強をしたのか大変興味あるのです。何かキューッと心に入るものがあれば限られた人生、それを灯にして生きてゆけそうに思います」に答えている。
二人の答えに共通するのは学校から直接教えられたことはなく、日常の生活の中で、訓練・任務遂行するうちに自然に体得されたという点である。二人とも真面目に几帳面に答えている。
私は神奈川県座間にあった陸軍士官学校入校(兵科は歩兵)してから「見苦しい死に方だけはしたくない」と思い続けた。「死に対する恐怖」を拭い去ることはできなかった。戦場に行った場合どうなるのかよくわからなかった。だが阿南惟幾大将の『勇怯の差は小なれど責任感の差は大なり』と言う言葉を耳にしてから要は武人としての責任感のあるなしが決め手なると知った。だから自分がその場に立たされた時、ひたすら『責任』を果たすことを考えれば「死に対する恐怖」は起こらないと思うようになった。
ガダルカナル戦の実例を引く。ガ島の日米決戦のヤマバの一つが見晴山の争奪戦であった。若林東一中隊長(陸士52期・恩賜)は死力を尽くしてここを死守した。昭和18年1月14日西山遼少佐・大隊長に別れを告げるため後方に来た。この時若林大尉は負傷していた。「部下と共に最後まで戦い抜き、見晴山を死守します。武人としての若林の一生は見晴山で終わります。私も部下もあとに続くものを信じます。死んでなおこの戦いの必勝を信じます。祖国の不滅を信じます」と挨拶した。若林中隊長が戦死したのは1月14日であった。ガ島からの撤退が伝えられたのは若林中隊長戦死から3日後の1月17日であった。
ガ島で参謀として活躍した親泊朝省中佐(陸士37期)は昭和18年3月から陸士の戦術教官になる。57期の村上兵衛(作家)は同期生と一緒に宿直室の親泊中佐を尋ね話を聞いている。親泊中佐はこんな話をする。「君たちの先輩50x期の中隊長に、発狂して逃げ出したものもいる。あまりの砲撃のもすごさに士官候補生出身の将校が気に触れて、逃げ出したのだ。一体近頃の士官学校は、何を教育しているのだという批判も聞いた」。このような陸士出身の将校もいた。
ガダルカナル島での全戦闘期間は約6ヶ月。親泊中佐の部隊のガ島戦は昭和17年11月初旬から昭和18年2月1日までである。ガ島から帰ってから発病した。栄養失調、マラリア、極度の心労により陸軍病院への入退院を繰り返した。中佐は仲間から敬愛を集め、部下からも慕われ、極めて人間性豊かななさの深い人であった。昭和20年9月2日戦艦ミズーリ号の艦上で調印式が行われる朝「冬さらば春のくるを知りつつも かくは心の急(せ)かるるものかは」の辞世の歌を残して家族ともども自刃した。このように責任感の強い武人もいた。生死教育はそう簡単にはできない。私は日ごろから仕事に対して責任を果たす人間がいざと言う時に立派に死ぬことができると思う。
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