関岡英之著『帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」』(祥伝社・平成22年3月25日発行)に「モンゴルからイスラーム圏にかけて反共親日国家を樹立し、ソ連共産主義の南下を遮断する防共回廊構想・計画の源流が陸軍の知られざるイスラーム通の大御所、林銑十郎であった」という記述がある。驚くほかなかった。さらに計画を立案したのがモンゴル通と言われた松室孝良(陸士19期・少将・北平特務機関長など歴任)であり、その計画を推進したのが関東軍参謀副長時代(昭和9年12月就任)の板垣征四郎少将(陸士16期・大将・昭和23年12月法務死)であったという。まさに見果てぬ夢であった。今の時代でもこれだけの戦略は必要であろう。
林大将の経歴は多彩である。石川県出身、第4高等学校を中退して陸士に入校する(陸士8期・明治29年卒業・292名)。陸士に入校した時には日清戦争が終わっていた。三国干渉による遼東半島還付で国民はもとよりロシア撃滅の意気が盛んであった。陸大は渡辺錠太郎大将(首席)と同じ17期である。日露戦争では勇猛果敢で知られる一戸兵衛旅団長(大将)のもとで旅順攻略に参加、功績を挙げ功4級の金鵄勲章を受ける。ドイツ留学、イギリス駐在を経て大正5年11月久留米俘虜収容所長となる。エリートコースを歩む人材をこのような職にあてる当時の陸軍の人事は見事というほかない。歩兵57連隊長(大正7年7月)、フランスに出張して国連陸軍代表を務める(昭和12年3月から昭和13年3月まで)、教育総監(昭和7年5月)陸軍大臣(昭和9年1月)等を歴任して首相までになる(昭和12年2月2日から昭和12年6月4日まで)。林大将の世評は芳しくなかった。「越境将軍」と言われた。当時朝鮮軍司令官であった。昭和6年9月満州事変が起きた際援軍を独断で満州へ派遣したことでそのように言われた(真相は軍参謀の独断で歩兵一大隊を派遣したもの)。「何もせん十郎内閣」などと言われた。レッテルだけ人を判断するものではない。満州国さえまだこの世に出現していない時代に林大将はモンゴルからイスラーム圏までも見据えていたのである。日露戦争の際、ロシア語通訳官として従軍していた山岡光太郎と知り合う。その山岡が「日露戦争で日本が勝ってもロシアは極東進出を諦めない。それを阻止するには日本はトルコから東トルキスタンにいたるイスラームという持論」を林大将(当時大尉)に語ったという。またドイツに留学した成果を「第一次世界大戦時回教諸国の動静」として約800枚に上る研究ノートにまとめ上げている。さらに昭和13年9月には創立された「大日本回教会会長に就任する。総務部長に松室孝良をあてる。日本のイスラーム政策は極東と近東を結ぶ壮大な世界戦略であった。それは日本の敗戦によって消えた。林銑十郎はそのことを知らずに昭和18年2月4日、享年68歳でこの世を去った。
(柳 路夫) |