2010年(平成22年)7月10日号

No.473

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安全地帯(289)

信濃 太郎

死を捨てて義を守った軍人の話
 

陸軍中将・根本博(陸士23期)は知る人ぞ知る。日本が敗戦して本人も復員(昭和21年8月)した後。招かれて台湾に密航、国共内戦中の金門島で中共軍を撃破した人物である。それだけではない。終戦の時北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官であった。昭和20年8月20日内蒙古の在留邦人4万人の命を助けるために「武装解除」を拒否、ソ連軍と激戦を展開して撃退。その後在留日本人や日本の将兵が国府軍の庇護のもと無事に帰国する。その恩義を根本中将は忘れなかった。密航してまで台湾に赴いたのは国府軍が共産軍との戦いに敗れ存亡の危機に陥った時、「義に報いる」ためであった。

それにしても敗戦時、上から「武装解除」の命令が来ているのにそれに従わなかったというのはすごい。根本中将はソ連軍相手に絶対に武装解除しないことを決意した。ソ連の本質を見抜いていたからである。昭和5年、根本中佐は参謀本部第2部の支那班長で、ロシア班長は同期の橋本欣五郎中佐であった。そのためロシア事情にも通じソ連軍の本質や危険性を知悉していた。ソ連軍主力と激突する防衛陣地に対して撃滅を命じ、これに対する責任は根本が負うと明言する。8月9日から始まったソ連との戦争で総崩れとなった関東軍と満州全域の行われているソ連軍の蛮行は根本中将の元に刻々入っていた。これは根本中将が無線傍受を強化し敵・味方の無線の傍受だけでなく重慶政府の国際放送まで入手していたからである。情報は重大な決意をする際に役に立つ。根本的に言えば、在留邦人の命を守ることを考えた上での行動であった。もちろん「武装解除拒否」をめぐって南京の支那派遣軍司令部と駐蒙軍との間で激しいやり取りが交わされている。それでも根本中将は在留邦人の命を守るため武装解除を断固拒否した。駐蒙軍が撤退したのは在留邦人たちが北京、天津へ避難した事がわかってからである。

中共軍が金門島を攻撃したのは1949年10月24日夜である。すでに10月1日には中華人民共和国の成立を宣言している。ここで国府軍は大勝利を挙げた。殲滅された中共軍は1万とも2万ともいわれる。勝因は根本中将の的確な判断と作戦であった。予想した通りの海岸から敵は上陸してきた。また、増援部隊が来られないよう中共軍が金門島に上陸に使ったジャンクや帆船は砂浜に壕を掘り、岩陰で潜んでいた国府軍兵士によってほとんどが焼き払らわれしまった。これで上陸した中共軍は孤立、戦車隊と兵の活躍でせん滅した。爾来3年間、金門・馬祖に戦力的防備を完成させる。根本中将は昭和41年5月享年74歳でこの世を去る。かかる日本軍人ありきとここに書く次第。私が根本中将のことを知ったのは毎日新聞から平成3年12月10日に発行された杉田幸三著「日本軍人おもしろ史話」である。今回、門田隆将著「この命義に捧ぐ」―台湾を救った陸軍中将根本博の奇蹟―(集英社・2010年5月30日第2刷発行)でさらに詳しく知った。